2. 生霊

「魔は祓った、安心するといい。大事ないか?」

「はい……ええ、大丈夫です」


 女官がゆるゆると息を吐きながら答える。


「本当に恐ろしゅうございました。依夜殿には感謝申し上げます」

「顔色が悪いな。さじに薬を……生成きなり


 声が喉につかえたようにかすれる。

 まだ神官三人は楽を奏でているが、龍笛の音は止んだ。足音。


「少しお顔を見せて下さいますか?」


 依夜の隣に歩み寄った生成が、その場に片膝を付く。気遣うように女官の顔をのぞき込んだ。そっと両手で顎に触れ上向かせる。

 依夜には見せない優しげな表情をしている。その事に心底苛立ちがわいた。なぜ、どうして誰もこの男の嫌らしさに気が付かないのか。いや、そもそも生成が皆を欺いているのだ。そういう風に、優しく接して笑いかけて。


「首に触りますよ。……少し脈が早いですが無理もありませんね。お疲れのようですから、体力を回復出来るものをお出しします」

「ありがとう存じます」


 頷いた女官が笑顔を浮かべる。その手が生成の手を握った。


「わたくし、とても、本当にとても気分が悪いのです。生成殿、また診に来てくださいますね?」

「ええ」


 柔らかな笑みを浮かべた生成に、思わず舌打ちする。帝妹としては許されぬ行為だが、今は神官だ。これくらいは許されるだろう。


「また伺います。今は休ませていただくのが良いでしょう。よろしいですか、季守きしゅ殿」


 生成が立ち上がり、ひさしの方を伺う。


「もちろんだ。礼を言う」


 季守はそう頷き、ようやっとこちらへと歩み寄る。それを合図にしたかのように、神官たちが演奏をやめる。

 魔は祓われた。念のために長めに演奏していたが、もう大丈夫だろう。


「さすがは依夜殿。退魔に関しては右に出るものがいないな。いずれ祭主になられるのはあなたでしょうね」

「……なにが言いたいのです?」


 祭主は神官の頂点だ。雑事は神官長に任せ、自身は神と人を繋ぐ神託を授かる。国の在り方を神に尋ねるのが主な役割だ。祭主にくだる神託は政治的な意味を持つ。祭主の授かった神託を覆せるのは、帝にもたらされる天啓てんけいだけだ。

 祭主になる、それは国を動かす事に繋がる。軽々しく口にして良いことではない。


「深い意味はない。稀有な退魔の才なら周りが推すだろうと思うまで」

「退魔が出来ても、神の声を聞けなければ務まらないことです」


 軽く会釈し、床に置いたままだったしょうを拾い上げる。


「して、どのような魔が付いていたのです」

「生霊でした」

「まあ! なんてこと……」


 女官が驚いた顔をして自身をかき抱く。その白々しい様子に、生成とは違う苛立ちを感じる。


「恨まれておいでのようでしたので、言動には気をつけられた方が良いかと。なんの責もなくとも責をこじつける者はいるものですから」


 女官の顔色が変わる。それには気づかないふりをして視線を逸らす。


「生霊……。生霊は祓うと本人に返されると聞き及んでいるが?」

「その通りです。彼女に憑いていた生霊は調伏ちょうぶくされ怨んだ本人へ返されました。しばしお苦しみになるでしょうね」

「ほう。ならば誰が生霊を飛ばしたのかわかるものか? さじ殿であれば検討がお付きになるのでは?」

「さぁ」


 生成は当たり障りのない笑みを浮かべ、首を傾げて見せる。


「私にわかりますかどうか……わかったところでもう罰は受けられておりますから」


 生霊を返されるという事はそういう事だ。念が強ければ、命に関わる事だってある。


「では、私達は清藍せいらん殿へ報告に行かねばなりませんので」


 生成がそう話を畳み、皆を促し退出していく。それに続こうと踵を返したところで、季守きしゅに呼び止められた。


「まだなにか?」

「あなたの婚姻について神託は降りましたかな?」

「っ————」


 突然の話に声が詰まる。


「生成殿は優秀な神子みこだ。だが所詮は臣下。本当に降嫁なさるおつもりか?」

「——それはわたしが決めることでは、ありません」


 絞り出した声が醜く引きつる。

 生成の元へ降嫁する。それは帝が望んでいる事だ。それを是か否か決めるのは神。依夜の意志などもとより関係ない。


「あなたを降嫁させるのは余りに惜しい。そう思う皇族達が軒並み婚姻を願い出ているとか。私も、息子を帝に推しております」


 帝の血筋でありながら臣下に降ろされた生成より、確かに季守の息子の方が依夜の相手には相応しいだろう。彼の息子にはなんの感情も抱いていない。上手くやれるはずだ。

 そう考えると、ますます生成の存在が膨らむようだ。めまいがする。

 兄は、帝は生成をという意向だ。それを神がくつがえすとは思えない。帝は現人神あらびとがみなのだから。


「そうなればどれだけ……」


 生成よりはましな人生を送れるはずだ。そう思うと胸が詰まった。

 この先の人生が生成とずっと一緒なら、いっそ……。


「馬鹿なことを言った……忘れてください。わたしは今、神官ですので」

「ああ、いや、こちらこそ出すぎた真似を。退魔をありがとうございました、天緑てんろく殿」


 依夜をわざわざ階級名で呼んだのは、彼なりの気遣いのつもりだろうか。


「では、これで失礼する」


 天緑の長として気を引き締め、季守と女官に背を向ける。

 御簾みすをくぐるとそこに生成が立っていた。待っていたのかと驚く反面、いつもいつも自分の行動を先回りして見張っていることに苛立ちを覚えた。

 声もかけずその横を通り過ぎると、その後ろから生成の足音が付いて来る。


「密談でも?」


 からかうような生成の声に唇を噛む。聞こえていただろうか。


「お前には関係ない」

「そうですか。てっきり婚姻のお話でもされているのかと」

「————っ」


 こぶしを握り込む。聞こえていたのだ。なんという底意地の悪さ。


「だったらどうなんだ」

「いえ、なにも。どうせ神託が降りなければなにもはじまりませんから。帝の意向と違う神託が下るかもしれない」


 生成は血で言えば依夜の従兄弟に当たるが、立場は臣下だ。神官としてなら同じ天緑の階級だが、長である依夜の方が位は高い。それなのに、いつも生成は依夜に対して不遜な態度だ。そして、そうするだけの実力がある。冷静さがある。

 まるで自分を嘲笑うかのようなその冷たい瞳が恨めしい。


「そう願っている」


 庭に視線を泳がせる。そこには帝の住まうここ「桜の宮」の名にふさわしく桜の木が至る所に植えられている。その枝先には、固く小さな蕾が芽吹いて来ていた。

 もうすぐ春だ。すぐに桜は花を咲かせ、この宮を絶景で彩るだろう。依夜の未来とは真逆の美しさで。


(わたしは————)


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