「桜の宮」奇譚 夢みたものは〜和歌で魔を祓う姫はこい願う〜
はな
壱ノ歌 あだびとを想ふばかりの我が恋は
1. 笙と龍笛
荘厳な
女官はここのところ体調が思わしくなく、彼女の主人である
笙や
神官はただ人とは違い、色素の薄い肌や髪、瞳をしている。それこそが神に選ばれ、力を与えられた
金に近い髪と瞳を持つ依夜もその一人だ。祈冥聖——つまり皇族として生まれた依夜も、神官としては中級位。狩衣を脱げば帝妹としてかしずかれる依夜も、階級が上の神官には従わねばならない。神官は貴族の身分も性別も及ばぬ神の遣いなのだ。
今回の退魔も、
天と地の間を翔ける龍を思わせる清涼な音が依夜の笙と重なる。見ずともわかる、この音は隣に立つ
(なぜだろう……)
生成は依夜のことを嫌っている。依夜だってそうだ。それなのに楽の音だけはこんなにも————。
女官が胸を押さえた。顔色が悪い。
彼女の背に黒いもやのようなものが浮かび上がる。人に害を成す魔だ。ただ人には見えないそれが、神官は見える。皆見え出したのだろう、楽の音にも微かな感情の揺れが出ている。一切の乱れがないのは、生成の龍笛だけだ。
(あれは、生霊……?)
魔に生者の気配が漂っている。そして深い哀しみと憎しみが。その感情が依夜の肌に絡みつくように這い上がってくる。
魔が依夜の方を向いた気配。
笙から口を離す。そっと隣に視線を流すと、ほとんど白く見える散切りの髪と白すぎる肌。その中の赤みがかった冷たい薄灰の瞳が細まり依夜を見
悔しい。こんなことで感情が乱れる自分が不甲斐ない。生成の方へ視線を向けなければ良かった。いつもいつも隣にいることすら腹立たしい。
そっと笙を床へ置き、女官へと歩み寄る。龍笛の音が背を押す。誰が演奏しているかなど知っていながら、それなのに美しいと感じてしまう音。
その美しい音には、神官の神通力が込められている。魔はこの音色が苦痛なのだろう、女官の背でうめくような低い声を出しながら身をよじった。その姿がより濃くなる。
女だ。顔は黒々として判別はつかないが、死者や物怪とは明らかに違う気配。哀しみ、憎しみ、怒り、そんな黒い感情が渦巻いている。
この女が憎い。私の夫を奪い、あらぬ噂で私のことも追い落としたこいつが。そんな呪詛のような声なき声が依夜の心に入り込んでくる。
これこそが依夜が神に与えられた、神子としての力だ。魔の声を聞き、魔を祓う力。
恨み言を繰り返す闇が身体を冷やしていく。絡みついて依夜をも害そうとするその呪詛。
相手が生者であれば、この魔は祓われれば本人の元へ返されることになるだろう。そうなれば、本人はこの生霊にあてられ相当苦しむことになる。それでも魔は祓わなければならない。たとえこの生霊の主の方に同情の余地があるとしても、だ。
(なんと哀れな……)
すすり泣く女の姿が見える。彼女はなにも悪くなかったのだ。陥れられたのは、おそらくは彼女の方。
胸が痛む。たった十七年生きただけの依夜にも、この情愛の念は痛い。奪われ、裏切られ、捨てられた者の恨みとして当然のことのように思われてならない。
生成の龍笛の音が跳ねた。瞬間、はっと息を飲む。今自分は魔に心を寄せてはいなかっただろうか。そんなことをしては、退魔どころか取り込まれてしまうというのに。
普段、生成の龍笛が乱れることなどない。今のはおそらく、依夜を引き戻すためにわざとそうしたのだ。依夜が気がついたことをちゃんと生成はわかっているだろう。もう元のような美しい音色だ。その清涼さに胸がざわつく。どんなことがあっても乱れない完璧さ。まるで自分の未熟さを見せつけられているかのよう。悔しいが五歳の差は縮まる気配もない。
龍笛の音に集中する。誰が奏でているかを考えなければ、本当に美しい音色だ。これほどまでに美しい音を他にまだ聴いたことがない。今はこの音に頼ろう。魔は祓うべきものだ。他に害を成す前に。そして、生霊を返された本人の苦しみがより小さく済むうちに。
胸のうちが龍笛の音で満たされる。そこに浮かぶ言葉を、音色に合わせて唇に乗せていく。
「あだびとを————」
依夜の全身を覆うように光の粒子が舞う。それはただ人の目には見えない、けれど確かにある神の力。
一歩女官へと近づく。垂れた頭から金の光に包まれ、その光が女官を包む。そして魔も。
いやいやをするように魔が耳を押さえる仕草をする。依夜の詠む和歌を聞きたくないのだろう。
「想ふばかりの我が恋は」
魔の想いを読み取り、その魔を祓う力を和歌に込めることで依夜の退魔の力は発動する。神子の力を発揮するための
龍笛の音が依夜の中を駆け抜ける。その響きが依夜の喉を震わせる。
荘厳な楽が依夜の朗々とした声を彩った。
「かたち変へてもひぐらし悲し」
天上からの光が降り注ぐ。それは屋根があっても関係なく注ぐ神が降ろす光。一層強くなった光が魔を包み込み、苦しげに悶えた魔が霧散していく。
生霊は返されたのだ。しばらく激しい体調不良に苦しむだろうが、おそらく命に関わることはないだろう。
ほっと胸を撫でおろす。女官は心底疲れ、気分が悪そうな顔色だ。魔に当てられていたのだ、無理もない。
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