「桜の宮」奇譚 夢みたものは〜和歌で魔を祓う姫はこい願う〜

はな

壱ノ歌 あだびとを想ふばかりの我が恋は

1. 笙と龍笛

 荘厳ながくが寝殿を満たしている。その楽の音に包まれ、自らもしょうを奏でながら、依夜は寝殿の中央に座し頭を垂れている女官の気配をたどっていた。

 女官はここのところ体調が思わしくなく、彼女の主人である祈冥聖きめいせい季守きしゅから神殿へ祈祷の依頼が来た。神官が面会に来ると、彼女に魔の触りの気配がある。そのため、退魔のための祈祷を行なっているのだ。


 笙や龍笛りゅうてき篳篥ひちりき、琵琶などを奏でているのは、依夜を含む五人ほどの神官たち。真っ白な狩衣、その下のあこめの色が階級によって違いはするが、白い狩衣は神の代行たる神官の証だ。

 神官はただ人とは違い、色素の薄い肌や髪、瞳をしている。それこそが神に選ばれ、力を与えられた神子みこの印だ。彼らは生まれながらに神通力を持つ。その力で魔を祓い臣民を護るのが役目。


 金に近い髪と瞳を持つ依夜もその一人だ。祈冥聖——つまり皇族として生まれた依夜も、神官としては中級位。狩衣を脱げば帝妹としてかしずかれる依夜も、階級が上の神官には従わねばならない。神官は貴族の身分も性別も及ばぬ神の遣いなのだ。

 今回の退魔も、清藍せいらんという階級名で呼ばれる神官長から命じられたものだ。


 ひさしの方を横目で伺うと、そこには先帝ちちとよく似た面差しの男が立っている。依夜の叔父であり、依頼主の祈冥聖季守その人だ。依夜自身はあまり話をしたことはないが、亡き先帝を思い出させるには十分だった。

 天と地の間を翔ける龍を思わせる清涼な音が依夜の笙と重なる。見ずともわかる、この音は隣に立つ生成きなりの龍笛だ。一切の乱れなく絡み重なり合う音。


(なぜだろう……)


 生成は依夜のことを嫌っている。依夜だってそうだ。それなのに楽の音だけはこんなにも————。


 女官が胸を押さえた。顔色が悪い。

 彼女の背に黒いもやのようなものが浮かび上がる。人に害を成す魔だ。ただ人には見えないそれが、神官は見える。皆見え出したのだろう、楽の音にも微かな感情の揺れが出ている。一切の乱れがないのは、生成の龍笛だけだ。


(あれは、生霊……?)


 魔に生者の気配が漂っている。そして深い哀しみと憎しみが。その感情が依夜の肌に絡みつくように這い上がってくる。

 魔が依夜の方を向いた気配。

 笙から口を離す。そっと隣に視線を流すと、ほとんど白く見える散切りの髪と白すぎる肌。その中の赤みがかった冷たい薄灰の瞳が細まり依夜を見る。その瞳に胸が疼いた。それでも、彼の龍笛の音は乱れることもない。

 悔しい。こんなことで感情が乱れる自分が不甲斐ない。生成の方へ視線を向けなければ良かった。いつもいつも隣にいることすら腹立たしい。


 そっと笙を床へ置き、女官へと歩み寄る。龍笛の音が背を押す。誰が演奏しているかなど知っていながら、それなのに美しいと感じてしまう音。

 その美しい音には、神官の神通力が込められている。魔はこの音色が苦痛なのだろう、女官の背でうめくような低い声を出しながら身をよじった。その姿がより濃くなる。


 女だ。顔は黒々として判別はつかないが、死者や物怪とは明らかに違う気配。哀しみ、憎しみ、怒り、そんな黒い感情が渦巻いている。

 この女が憎い。私の夫を奪い、あらぬ噂で私のことも追い落としたこいつが。そんな呪詛のような声なき声が依夜の心に入り込んでくる。

 これこそが依夜が神に与えられた、神子としての力だ。魔の声を聞き、魔を祓う力。


 恨み言を繰り返す闇が身体を冷やしていく。絡みついて依夜をも害そうとするその呪詛。

 相手が生者であれば、この魔は祓われれば本人の元へ返されることになるだろう。そうなれば、本人はこの生霊にあてられ相当苦しむことになる。それでも魔は祓わなければならない。たとえこの生霊の主の方に同情の余地があるとしても、だ。


(なんと哀れな……)


 すすり泣く女の姿が見える。彼女はなにも悪くなかったのだ。陥れられたのは、おそらくは彼女の方。

 胸が痛む。たった十七年生きただけの依夜にも、この情愛の念は痛い。奪われ、裏切られ、捨てられた者の恨みとして当然のことのように思われてならない。


 生成の龍笛の音が跳ねた。瞬間、はっと息を飲む。今自分は魔に心を寄せてはいなかっただろうか。そんなことをしては、退魔どころか取り込まれてしまうというのに。

 普段、生成の龍笛が乱れることなどない。今のはおそらく、依夜を引き戻すためにわざとそうしたのだ。依夜が気がついたことをちゃんと生成はわかっているだろう。もう元のような美しい音色だ。その清涼さに胸がざわつく。どんなことがあっても乱れない完璧さ。まるで自分の未熟さを見せつけられているかのよう。悔しいが五歳の差は縮まる気配もない。


 龍笛の音に集中する。誰が奏でているかを考えなければ、本当に美しい音色だ。これほどまでに美しい音を他にまだ聴いたことがない。今はこの音に頼ろう。魔は祓うべきものだ。他に害を成す前に。そして、生霊を返された本人の苦しみがより小さく済むうちに。

 胸のうちが龍笛の音で満たされる。そこに浮かぶ言葉を、音色に合わせて唇に乗せていく。


「あだびとを————」


 依夜の全身を覆うように光の粒子が舞う。それはただ人の目には見えない、けれど確かにある神の力。

 一歩女官へと近づく。垂れた頭から金の光に包まれ、その光が女官を包む。そして魔も。

 いやいやをするように魔が耳を押さえる仕草をする。依夜の詠む和歌を聞きたくないのだろう。


「想ふばかりの我が恋は」


 魔の想いを読み取り、その魔を祓う力を和歌に込めることで依夜の退魔の力は発動する。神子の力を発揮するためのしゅは人それぞれ違うが、和歌を詠むのは今のところ依夜だけだ。初めて魔に対峙した時、自然と和歌が口をついて出た。それがはじまり。

 龍笛の音が依夜の中を駆け抜ける。その響きが依夜の喉を震わせる。

 荘厳な楽が依夜の朗々とした声を彩った。


「かたち変へてもひぐらし悲し」


 天上からの光が降り注ぐ。それは屋根があっても関係なく注ぐ神が降ろす光。一層強くなった光が魔を包み込み、苦しげに悶えた魔が霧散していく。

 生霊は返されたのだ。しばらく激しい体調不良に苦しむだろうが、おそらく命に関わることはないだろう。

 ほっと胸を撫でおろす。女官は心底疲れ、気分が悪そうな顔色だ。魔に当てられていたのだ、無理もない。

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