るりこパラレル 5/5

 カッターを取り上げられた勢いで彼女が地面に倒れ込む。


 見上げる彼女と見下ろす僕。

 最初とまったく逆の構図だ。


 驚きと怒りとがないまぜになった複雑な表情をする彼女に僕ではない誰かは告げる。


「君はすごいよ。愛する人を取り戻したいがためにまったくのゼロから勉強して未完成だった理論を完成させた。本当に賞賛されるべきことだ」

「そりゃどーも。だが俺を説得しても無駄だぜ。どうせお前は何も知らないんだから」


 嘲笑うように彼女は口元をひきつらせる。

 確かにここに至るまでにどんな努力や心血を注いできたかなんて知らない。


 だが僕は、僕の知らない誰かは首を横に振る。


「知っているさ。君は勉強が苦手だし特に数学は赤点ばかりだった。そんな君があの数字と公式の山でできた理論を完成させたんだ。本当にすごいよ。それを最初の実験台になって使う勇気も」


 その言葉に彼女は息を詰まらせる。

 まるで存在しない幽霊でも見たように。

 僕はさらに言葉を続けた。


「そんな勇気を持つ君だから分かってほしいんだ。こんなことしても無駄だって。誰も望んでないんだって」

「う、うるさい。お前に何がッ――」

「わかるさッ!」


 彼女は口を噤む。

 僕の情動に塗れた言葉はそれほどまでに苛烈だったが、軽い深呼吸でそれを内側へと引っ込める。


「離れていた間の君のことは知らないッ。でも、ここに辿り着くまでにどれだけのものを犠牲にしたのかをわからないほど、君のことを分かっていないつもりもない。だからこそ僕が他人の幸せを犠牲にしてまで蘇ることを望んでいないことをわかってほしい」


 切実でいて悲壮な魂の言葉だった。

 少なくとも現場にいながら蚊帳の外にされた僕が聞いても感じ取れるほどには。


「嫌だ。ここまで来て今更諦めるなんてできないよ……」


 顔を伏せ弱々しく呟く彼女を僕はしばらく見ていたが、やがてしゃがみ込んでその華奢な体を両手で抱きしめた。


「ごめんよ。その気持ちは嬉しい。本当だ。でも君が想っている男はそこまでワガママにはなれないんだ」


 優しく告げた僕の腕の力が一瞬強くなりそして弱まった。

 まるで手に入らない物の感触をしっかりと記録するように。


「それでも未練があるというならはっきりと言おう。君は君の世界へ帰れ。君のような優しくてカッコよくて可愛くて強い人を置いていった男のことなんて忘れろ」



―――――



 後日談。


 あの教室での一件から一週間。

 僕は高校生として平穏すぎる日々を過ごしている。


 今日も今日とていつもと変わりなく学校へと登校し、教室へと向かう階段を登っていた。


 半ば自動的に足を交互に段に乗せつつ右に目を転じる。

 僕の隣には高鷲瑠璃子が同じく階段を登りながら当たり障りのない話題を振ってきていた。


 あの日カッターを突きつけた彼女とは違う、この世界の、本物の高鷲瑠璃子。


 僕は彼女の話を聞きながら適切なタイミングで相槌を打ち、さらに話を引き出すために質問を重ねる。

 彼女の表情は一週間前と比べると晴れ晴れとしているように見えた。


 それもそうだろう。

 結論から言うとあの日以降、高鷲瑠璃子を苛んでいた現象はすっかり鳴りを潜めていた。


 それはつまり並行世界の高鷲瑠璃子の干渉がなくなったということであり、あの告白ともつかない言葉が効いていたことを意味していた。


 お願いした通り、昔の男のことなど忘れたのかもしれないが、組織の上層部は無害と判定するには不十分だとして高鷲瑠璃子の監視続けている。

 おかげで僕は引き続き、高鷲瑠璃子の幼馴染兼彼氏としての肩書きを拝命している。


 用心深い上層部のことだから警戒が解けるにはまだ少し時間がかかるだろう。


 僕が他人の幸せを犠牲にしてまで蘇ることを望んでいないことをわかってほしい


 ふと脳裏にあの時の言葉が思い浮かぶ。


 並行世界の高鷲瑠璃子が現れなくなったのと同じくして、僕の体を乗っ取った誰かも現れなくなった。

 このことは組織にも報告していない僕しか知らないことだ。


 並行世界からの干渉現象を観測していた人間が何者かの干渉を受けていたなんて報告できるわけがない。

 ミイラ取りがミイラになったのでは本末転倒なのだから。


 そもそも僕は最初から僕自身を疑うべきだった。

 高鷲瑠璃子の監視任務を自ら志願した時点で。


 観測員は街を監視する目。

 組織が街を見張るために一般社会に紛れさせ、客観的に物事を見て異変をいち早く捉える。


 そんな役目を負った人間が何故、こんな一個人と深く関わりを持つような行動を取ったのか。

 しかもいままで接点のない少女の監視を。


 僕は何度も過去を振り返り精査したが理由は見当たらなかった。

 僕の意思で決めたはずなのにその過程はすっかり抜け落ちていた。


 もしかしたらあの時点で僕は干渉を受けていたのかもしれないが、今となっては真相は不明のままだ。


 ぼんやりと思考に耽っていると声をかけられ顔を上げる。


 いつの間にか教室のある階に到着していたようで瑠璃子がこちらを心配そうに覗き込んで訊ねた。

 「どうかしたの?」と。

 

 僕は首を横に振って応える。

 「なんでもないよ」と。


 そうすると瑠璃子は特に気にした様子もなく、そのまま教室に向かっていく。

 僕もその後を追おうとして足を踏み出そうとして立ち止まる。


 正面の窓に己の姿が写っており、僕は鏡の中の僕自身に問いかける。


 お前は誰だ、と。


 もちろん答える声はない。

 ただ鏡の中の僕は穏やかに微笑んでいた。

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並行世界の彼女 森川 蓮二 @K02

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