第45話

 皐介、と呼ばれた気がして目を開くと、暗がりの中に薄ぼんやりと白っぽい何かが見える。霞む目をこすりながら体を起こすと、姿形は懐かしい親父だった。でも、親父ではない。目が、金色に光っていた。

「趣味の悪い真似はやめろ」

「まあ、そう言うな。この姿でいるのには、ちゃんと理由がある」

 猿神は笑いながら、俺の前に腰を下ろして胡座を組む。膝に置かれた分厚い手は、軍手をしていない。無骨なのに滑らかな、懐かしい手だった。

「お前は、なぜセイミョウが目を潰してもなお六觀の仏像だけが見えたのか、不思議には思わなかったか」

 切り出された話に、膝の手から視線を上げる。全く、不思議には思わなかった。寧ろどこか当然のような心持ちで聞いていた。

「セイミョウは六觀の仏像がそれだけ霊験あらたかなのだと信じ込んでいたが、そんなわけはあるまい。まああれは一途で思い込みの強い性質だから、致し方ないだろう」

 鼻で笑われたが、俺にとっても親父の仏像は「特別のもの」だった。ただ今は、そこにかかずらっている時ではない。なぜ猿神が今、親父の姿でその話をするのか。脳裏に導き出された推察は、考えうる中で最悪のものだ。

「六觀は、我が血を引いた『息子』だ。あれの母親は狃薗の出で、同じように願掛けをして六觀を得たあと寺に託した。六觀の仏像をセイミョウが見つけたのも六觀がお前の養父となったのも、我が血の臭いを嗅ぎ取っただけのこと。何ら不思議ではない。我が血を引くがゆえにあれの作る仏像がひときわ毒であったのも、また確かではあるが」

 最悪の事実を更に奈落へ落とす可能性に、舌打ちをする。ふざけんな、と小さく悪態をついた俺に、猿神は見下すような視線をくれる。親父は、絶対にしない視線だ。

「類は友を呼ぶと言っただろう。我が血は、自ずと引き合うようにできているのだ。我が目的のためにな」

「胸糞悪い冗談を言うつもりじゃねえよな」

「冗談ではない。皐介、お前も我が血を引くのだ。人の流れに当てはめるのなら孫に当たる。男に特異は出ぬが、心当たりはあるだろう。その性質は『人のもの』ではない」

――あんたは人にめちゃくちゃ親切にできるけど、死ぬほど残酷にもなれるでしょ。

 ふと蘇る沙奈子の言葉に溜め息をつき、顔をさすり上げる。確かにその傾向はあるが、正直「そこまでではない」と思っていた。この程度、どこにだっているだろう。河田だって似たような、と思ったが、そういえば河田も猿神と縁持ちだった。

「母親か?」

 諦めの息を吐いて尋ねた俺に、猿神は思惑ありげに含んだ笑みを浮かべる。ぎらりと目が光った。

「いや、父親だ。お前が浅はかな嫉妬で長屋へ呼び込み、六觀を殺したあれがお前の父親よ。お前の母親はあれの愛人だったが、お前ができたために捨てられたのだ」

「女の趣味が被ってんのが最悪だな」

 図らずも知れた血の濃さに、うんざりする。

「人間というものは、このような時には驚きで言葉を失くすか、挙措を失い狼狽するものだぞ」

「黙れ、クソ猿」

 吐き捨てるように返した俺を鼻で笑ったあと、猿神は腰を上げた。

「セイミョウは、実に都合良く動いてくれた。ここに、私が求め続けた最高の器を運んでくれたのだからな」

「皐子をどうする気だ」

「如何様にも、と言っただろう。但し、それを決めるのはお前だ」

 にやりと親父らしくない笑みを浮かべた猿神が、少しずつ薄れていく。

「急げよ、もう間はないぞ」

 気になることを言い残し、下卑た笑みが消えた。次の瞬間、視界に溢れた光に目が眩む。

「おとうさん!」

 はっきりと聞こえた子供の声と同時に影が覆い、目の前がはっきりと見える。間近に迫るセイミョウの手を咄嗟に弾いて、禍々しい顔を殴った。

 手が、動く。

 慌てて瘤の垂れた腹を蹴り飛ばし、起き上がって間合いを取る。セイミョウはぐらりと体を揺らしたあと、両目に瘤を嵌めた顔で俺を見据える。グロテスクすぎて、正視に耐えない。

「ああ……さ、る……猿が、み……さるがみいいいいいい!」

 突然の咆哮とともに猛るや否や、再び俺を目掛けて突っ込んでくる。

「皐介、頭を引きちぎれ」

 知らぬ間に肩に乗っていた小さな猿が、偉そうな口を利く。舌打ちで応えたあと襲い掛かってきたセイミョウの腕を捻ると、鈍い音を立てて簡単に折れた。これならいけるか。

 もう一方の腕を折ったあと、腹を蹴り倒す。倒れた胸を踏みつけると、ぎゃあ、と濁った声とともに骨の拉げる音がした。

「終わりだ、セイミョウ。成仏しろ」

 両手で瘤だらけの頭を掴み、思い切り引き上げる。ぶちぶちと何かが千切れるような音と、幾重にも重なる断末魔の悲鳴が響く。

 いやな感触を振り切るように力を込めた途端、ふっと重みが消えた。次には掴んでいた筈の生首も踏みつけていた体も、肉色の液体となって地面に拡がる。数度紋を打ったあと、砂塵のように散っていった。

「皐子!」

 落ち着く間もなく、急いでその姿を探す。さっき俺を呼んだ声は、間違いなく皐子のものだ。

「どこだ皐子……皐子!」

 祠の茂みから覗く両脚に、慌てて駆け寄る。ぐたりと横たわっていた皐子は、青ざめた顔で荒い息を吐いていた。

「皐子、大丈夫か。お父さんだ、分かるか!」

 抱き起こして、冷や汗で濡れた額を拭う。皐子は薄く目を開けて、おとうさん、と弱々しく俺を呼んで涙を伝わせる。

「そうだ、お父さんだ。一緒に帰ろう、帰るんだから、しっかりしろ!」

 苦しげに再び閉じられた瞼に、震え始めた腕で抱き締める。だめだ、絶対にだめだ。

「猿神!」

 俺の声に応え、猿神は目の前に姿を現す。初めてちゃんと見る姿は、俺の手のひらに乗りそうな小ささでぎょろりとした目の、茶色の毛並みをした猿だった。確かに、右腕がない。その気になれば引っ掴んで半分に折れそうなほど、見た目は華奢で弱々しい。手足には細く長い指があった。ニホンザルではないのは、明らかだ。

「お前が願ったとおり、娘は自分の意志で私を追い出したのだ。お前を生かすよう、私に願ってな」

「ふざけんなよ、子供に取引の意味が分かるか!」

「しかしお前なら分かろう」

 焦る俺とは裏腹に猿神は勿体ぶったように返して、キキ、と猿のように笑う。

「半身であった私を失った娘は、やがて死ぬ。しかし私は、追い出された身にはもう戻れぬのだ」

「じゃあ、どうすればいいんだよ!」

「私を受け入れよ、皐介」

 猿神は俺を見据えたまま、首を不自然な角度に回す。金色の目が、妖しく輝いた。

「お前は、長らく待ち望んでいた最高の器だ。我が身がこの地に縛りつけられて以来のな」

 差し向けられた骨のような長い指先が、セイミョウの言葉を思い出させる。

――あなたは大丈夫でしょう。良心の呵責なく悪行を積める方には、猿神がつけ入る心の弱さが少ないのです。

 ああ、つまり「そういうこと」か。器とは、馴染んだ皐子ではなく。

 腕に抱いた皐子の肌はもうすっかり青ざめて、呼吸も弱い。撫でた肌は冷たい汗で湿っていた。

「大丈夫だ、皐子。元気になったら、また『おとうさん』と呼んでくれ」

 もう一度抱き締めたあと、顔を上げる。猿神は分かりきっていた様子で、にたりと笑った。

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