第44話
辿り着いた猿神の祠は想像に違わぬ陰気さで、鬱蒼と茂る常緑樹に囲まれていた。ただ、当然いると思っていたセイミョウや皐子の姿がない。
「皐子、どこだ!」
辺りを見渡しながら呼ぶ声に、反応した鳥が飛び立つ。不意の気配に振り向くと、景色が歪むように崩れて皐子と対峙するセイミョウが現れる。
「皐子!」
呼べば宙からこちらを一瞥するが、当然皐子ではない。響く読経の中で、猿神は忌々しげに顔を歪めていた。
「お嬢さんを呼んで、猿神を追い出すように言ってください!」
「そのようなことをすれば娘は死ぬぞ!」
真っ向から対立する意見に、また惑う。どちらだ、どちらが本当のことを言っている。
セイミョウを信じたいのは山々だが、信じきれない要素はある。でも、親父の仏像があればどうにかと話していた。それならあの地蔵に、親父に賭ければいい。
「皐子、お父さんの声が聞こえるか? 自分の中から、そいつを追い出すんだ。追い出して、一緒に家に帰ろう!」
「バカなことを」
一瞬垣間見えた皐子の表情はすぐ猿神に飲まれるが、声が届いているのは確かだ。
「帰ったら、ハンバーグを食べよう。今日寝る時に読む本は何がいい? 『ぐるんぱのようちえん』と『ぐりとぐら』にしようか。『からすのパンやさん』も読む? 保育園で、また新しい折り紙を作るんだろ!」
皐子が少しでも自分を取り戻せるように、思いつくだけの好きなものを並べる。
「大好きだ、皐子。お父さんのとこに帰ってきてくれ!」
「小賢しい!」
猿神は吐き捨てるよう言い放ち、金色の目をぎらつかせて指を鳴らす。背後から肩を掴む手を、慌てて振り払った。後ずさって確かめた河田は金色の目を爛々と光らせ、牙を剥いた。やはり、そういうことか。猿神に願った者とは、道筋ができるのだ。
――俺が猿神に乗っ取られたら、迷わず殺せよ。
分かってんだよ、畜生。
「ああもう面倒くせえな、クソ猿が!」
上着を脱ぎ、向かって来た河田の頭に被せて腹に一発拳を叩き込む。普通のケンカなら狼狽えるし痛みを感じて引く場面だが、今の河田に理性はない。案の定、躊躇いなく伸びた手が俺の首を掴んで力を込めた。上着の向こうで、獣のように唸る声がする。
河田を引き寄せ今度は腹に膝を入れるが、やはりまるで手応えがない。これ以上したら、河田に影響が出る。まあそんなことはもう、言ってられないが。容赦なく力を込めて締め上げる手に、濁った音を吐く。耳鳴りがして、顔中が熱い。
「どうした、情が湧いたか。殺せと頼まれていたのではなかったか?」
茶化すような背後の声に舌打ちをする。相変わらず、死ぬほど趣味が悪い奴だ。
上着のポケットから飛び出ている合口を引き抜き、河田に被せていた上着を剥ぎ取る。あとで怒り狂うかもしれないが、致し方ない。これは個人的な情とは別問題だ。
合口の鞘を抜き、牙を剥く河田を見据える。
文句は猿神に言えよ。
潰れそうな喉では言えない台詞を飲み、濁った息を吐く。持ち替えた合口で、見開かれた金色の両目を一気に切った。猿神との繋がりを断つには、目を潰すしかない。
ぎぃぃ、と猿のように鳴いたあと、河田は手を緩める。すぐに蹴り飛ばして距離を取り、解放された喉に荒い息を吐く。一気に汗が噴き出し、肌が震えた。
「……クソが、何しやがった」
やがて聞こえた苦しげな声に振り向くと、血だらけの顔を押さえて座り込む河田がいた。
「猿神に、乗っ取られたから、目を潰したんだよ」
咳の合間に答え、上着のポケットからネクタイを取り出す。額の汗を拭うと、また俺のではない血の臭いが立った。
「とりあえずこれ巻いて、上から押さえとけ。寝転がるなよ」
河田の後ろへ回って目を覆うようにネクタイを巻き、少しきつく縛る。息は荒いが、目が潰されたのに予想どおり冷静だ。死ぬ覚悟の前では、霞む程度のことか。
「殺せっつっただろ。中途半端なことしてんじゃねえよ」
「気が変わったんだよ。あんたが死のうが俺は構わねえけど、あの街にはあんたが必要なんだろ」
生かした理由を告げると、河田は舌打ちして黙った。
「これでも吸ってろ。できるだけ早く終わらせる」
最後の一本に火をつけて、河田の口へ差し込む。煙草は血管収縮作用があったはずだから、多少は血流を悪くするだろう。震える指先が煙草を掴むのを見届けて、腰を上げた。
足が少しよろけて、苦笑する。俺もダメージは蓄積されているが、そんなことは言ってられない。痛む首をさすりながら、猿神に視線をやる。
「てめえの兵隊はもういねえぞ、クソ猿!」
掠れた声で投げた俺を、猿神は無言で一瞥した。さすがに焦っているらしい表情を、更に追い詰めるのは難しくない。
「皐子、お父さんは大丈夫だ、一緒に家に帰ろう!」
呼び掛けた声に、猿神から皐子の表情に変わった。
「ずっと一緒にいる、負けるな」
こくりと小さく頷いたように見えた体の線がブレ、何かが浮き出していく。セイミョウはそれを待っていたかのように、あの地蔵を取り出し猿神へと向けた。
「邪悪な神よ、人心を弄んだ報いを受けなさい!」
薄く透けた猿神の体が長く伸び、そこへ吸い込まれていくのが見えた。あれが移りきれば、完了か。ほかに術のない状況では、セイミョウに賭けるしかない。しかし終わりを期待した次の瞬間、地蔵がセイミョウの手で爆ぜて飛び散る。セイミョウは驚いた様子で後ずさり、俺も言葉を失くす。これは、どういうことだ。
続いて猿神の、勝ち誇ったような笑い声が響いた。
「そのように小さな守り仏に、我が身が収まるわけがなかろうよ」
「……お前」
「いつでも壊せたが、どうせなら劇的な方が良いだろう? 絶望は深い方が味わいがある」
再び皐子へ戻った猿神が、目を細めて下卑た笑みを浮かべる。
全て、分かっていたのか。殺せないなら、どうすればいい。殺さなければ、皐子は。無音の暗闇へ突き落とされるような心地に、思わず顔を覆った。
おのれ、と聞こえた声にはっとして、手の内から顔を上げる。まっすぐに皐子へ向かって行くセイミョウの姿に、慌てて駆け寄った。
「落ち着いてください」
前に立ちはだかって皐子を引っ掴みそうになった細い手を掴むと、セイミョウは口元を大きく歪める。
「離しなさい! このようなものを生かしておくわけにはいかないのです!」
俺の手を振りほどこうと力を込めたが、女の力だ。冷え切った肌に、今更驚くことはない。
「あああ憎い……お前の、お前のせいで」
俺の肩越しに猿神を見るセイミョウの声が、恨みを滲ませる。不意に妙な風が足元から吹き上げて、セイミョウの目元深くまで覆っていた頭巾が滑り落ちた。現れた姿に、思わず身を引く。
目が焼け爛れているのは予想できていたことだから、そこではない。剃髪されたセイミョウの頭には無数の苦しげな顔が張りついて、金魚が喘ぐように口をぱくぱくと動かしていた。
「……ばけもんじゃねえか」
「驚いたか、皐介。それがお前の頼っていたものよ。己で努めず私に欲をぶつけておきながら己ではなく私を恨む、浅はかな人間どもの成れの果てだ。どうにかせねば、娘が死ぬぞ」
背後から響く機嫌の良い声は癪に触るが、皐子の命が危ないのだけは確かだろう。
「猿神、この恨みを晴らさでおくものか」
セイミョウは俺の手を力強く振り払ったあと、幾重にも聞こえる恨みの声を吐く。立ちはだかった俺を再び振り払うように腕を叩きつける。かろうじて受け止められはしたものの、痛みで手が痺れた。やはり、セイミョウ一人の力ではなくなっている。
「そこをどけ!」
咆哮に似た叫びを上げて襲い掛かってくるセイミョウを蹴り返し、痺れの残る手で拳を作り身構える。とはいえ河田の時のように目潰しは通じないだろうし、そもそも死んでいる奴らだ。触れられるからといって、生きている奴のように打撃が通るとは思えない。
「俺が死んだらお前も死ぬんだろ、知恵を貸せよ」
「死ぬのはお前と娘だけ、私は死なぬ。もっともお前がそれを願うのならば、聞いてやらぬことはないがな」
勿体ぶった物言いに、舌打ちで返す。俺が願えば当然、俺との道筋ができる。俺に滑り込んで、生き延びる算段か。ふざけんな。
歯を剥き再び向かってきたセイミョウの腹を思い切り蹴り返し、怯んだ間に転がっていた合口を拾う。皐子に襲いかかろうとする肩を引っ掴んで首筋にぶっ刺すと、セイミョウは足を止めた。ただ、まるで手応えはない。
合口を引き抜くと、セイミョウは少し首を傾げるようなおかしな動きをする。途端、刺した辺りがぼこぼこと膨れ上がって、まるで実がなるように小さな顔つきの瘤が二つ三つ生まれた。
「気持ち悪りいな」
「尼になれど私を恨みすぎて成仏できず、その念が恨みを持つ魂を寄せ集めて百余年。恨みの塊で、人の心など失せて久しい。六觀は私ではなくそれを成仏させるために仏像を彫っていたと言えば、信じるか?」
「ふっ、ざけんな」
再び俺を目掛けて襲い来るセイミョウの腕を振り払い、腹に合口を刺す。相変わらずの手応えに引き抜くと法衣の腹が膨らみ、布を裂くようにして瘤が溢れ出してきた。ぼこぼことぶどうのように連なる肉色の瘤はぬるりとした粘液をまとい、全てに喘ぐ顔が見える。触発されるように袖の辺りも蠢き始め、袖口からぶら下がるように次々と零れ出てくる。おおおお、と無数の顔が漏らし始めた怨嗟の声に、森がざわめいた。耳を塞ぎたくなるような気味の悪い響きに、吐き気がする。
セイミョウは首をおかしな角度に傾けたまま、再び俺に襲い掛かる。瘤の重さか動きは鈍くなっていたが、その分威力が増したらしい。打撃を受けた途端、漫画のように吹っ飛ばされて背後の木に叩きつけられる。目の前が白く散って一瞬、息が止まった。
揺れる視界にぼんやりと、襲い掛かってくるセイミョウが映る。何か、と思うが指先はぴくりとも動かない。腰をやったかもしれない。もう、無理だ。
せめて最期くらい笑いたいが、笑えているか分からない。どうにか動く視線だけ滑らせて、皐子を映す。多分、親父もこんな気分だったのだろう。でも俺は、逃げろとも言ってもやれない。
ごめんな、皐子。
視界が揺らぎ、涙が伝うのが分かった。怨念を纏い迫ったセイミョウの手が、俺の首を掴むように握る。鈍い痛みを感じたのは一瞬、景色はすぐに暗闇へと落ちた。
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