第41話

「私の初恋は十一歳の時、相手は夫から逃げてきた三十過ぎの人でした。私が子供の頃はまだDVなんて言葉はなく、大した保護施設もなかった。彼女は暴力に耐えかね離婚を切り出して逆上され、殺されそうになって家を飛び出しさまよっていたところを、うちの長屋に住む女達に保護されました。来た時は顔が腫れて歪んで、体も痣だらけで酷いものでした。父は当たり前のように受け入れて、すぐに彼女は長屋の一員になりました」

 あの時は、不憫に感じて助けられたことに安堵しただけだった。うちにいれば、少なくとも生きてはいける。誰も殴らないし、殺そうともしない。外で生きづらい女ほど、楽だったはずだ。

「彼女は結婚するまで小学校の教員をしていたそうで、唯一私を『くん』づけで呼んで勉強をみてくれました。ほかの女達もみな情が深くて底抜けに優しかったんですが、頭が少し弱くて。ネジが数本抜けているようなところがありましたから、新鮮でしたね。彼女が教えに来てくれる日は学校から急いで帰って、どきどきしながら窓の外を見つめて待ちました。彼女と過ごす一時は、心が浮き立って落ち着かなかった。二時間程をほんの一瞬に感じるほど、幸せでした。でも」

 学校では得られない充実感を、彼女との一時には得ていた。ずっとこのままいたいと、祈るほどだった。あれほど強く何かを願ったのは生まれて初めてで、もうこれ以上強く願うことはないだろうと、十年ほどしか生きていないくせに思っていた。

 今の俺は、あの時以来の強い願いを抱いている。

「ある晩目を覚ました時、襖の向こうに彼女の声を聞いたんです。あまり思い出したくないので端折りますが、隣の部屋で父が彼女を抱いていました」

 彼女は長屋の一員になったのだから、いつそうなってもおかしくはなかった。とはいえ別に、親父に抱かれない道だってあったはずだ。親父は自分と寝ないからと言って追い出すような男ではなかったし、そもそもそんな男なら女達の方が愛想を尽かしていただろう。

――ロクさんはねえ、優しいのよ。私達を、絶対にバカにしないの。

 親父は女達に観音を見出していただろうから、おかしなことではない。だから彼女達を尊重し、守り、軍手で暮らした。彼女が親父に惹かれたのは、避けようのないことだった。

「父が女達を抱く姿を見たのは初めてではなかったし、盗み見ては女の体に父の観音像との相似性を感じて感心していたくらいです。それでも女達にはもちろん、父にも嫌悪感を抱いたことは一度もなかった。でもその時だけは違いました。私は父に、強烈な嫉妬心を抱いたんです。手を伸ばしても決して届かない、敵わないことへの敗北感も」

 自分が大人なら、と当時は思っていたがどうだろう。今の俺でも、多分まるで勝負にならない。俺は、親父のようにはなれない。

「その日から私は父を避け、彼女を遠ざけました。子供ながらに、これをぶつけるのは間違っていると分かっていた、ふりをしました。やせ我慢です。悔しくて憎くて、父が消えることばかり願っていた。そんな時、長屋の近くをうろつく不審な男に会ったんです。男は私に、『奥さんを探してるんだ』と彼女の名前を告げました。私は、その男が悲劇しか生まないことを知りながら『そこの長屋で仏師の女になってる』と」

 浅はかな一言だった。あの一言を言わなければと、今もずっと悔いている。たまにそれを言わずに切り抜けた夢を見るが、見たところで夢でしかない。目が覚めたあとの地獄は、追体験をするよりもきつかった。

「男は一軒一軒、長屋のドアを開けて中を確かめ、少しずつうちに近づいていきました。いきなりドアを開けられて驚いた女達が次々に出てきて、何があったのかと私に尋ねました。私が何も言えず黙りこくっている向こうで男はうちに辿り着いて、やがて悲鳴が。彼女が飛び出してきて、父が刺されたと叫びました」

 暗い願いが叶ってしまうことが、急に恐ろしくなった。あれほど願ったくせに、喪うと分かったら耐えられなくなった。河田が親の存在を忘れてファミコンをトレードしようとしたようなものだろう。当たり前にありすぎて、まさか自分から離れていくなんて思いもしなかった。子供らしい傲慢さだ。

「女達の手を振り解いて家に駆け込んだ時、刺された腹を押さえる父と血の滴る包丁を握り締めている男がいました。父は私を見て、逃げろと。その声に気づいて振り向いた男の目が、金色に光っていました。でもその目と包丁に、私は動けなくなってしまって。もう無理だと思いました。その時、女達が私を守るように次々抱きついてくれたんです。そのおかげで、私は無傷で守られました。その代わり、最後に立ちはだかった彼女が、犠牲に」

 次々と抱きつき重なっていく柔らかな肉の壁に、多くの母親に守られて俺は、生き延びた。その代わり、大切な存在を一度に喪ってしまった。

「男は彼女を刺したあと我に返って、悲鳴を上げて逃げていきました。残ったのは息絶えた父と、腹を血に染める彼女でした。……初めて抱き締めた彼女はとても温かくて、柔らかかった。私を、初めて『皐介』と呼びました。俺は生きろと。さっきまで軽かったのに急に重くなって、腕から滑り落ちていく体を慌てて抱き止めた。でももう、その腕が抱き締め返してくれることはありませんでした」

 俺に父と彼女を弔う力はなく、それは女達も同じことだった。警察に連絡することになって、女達は次々と俺の元を去って行った。泣きながら、俺の幸せを願いながら、自分を責めないようにと言い残して消えた。

「あの日私は地獄に落ちて、以来ずっと居座っています」

「あなたほどの方ならそこから抜け出し、その資質を善に向けることはできたはずです。六觀師も、今の生き方を望んではおられません」

「そうですね、望んではいないでしょう。でも、理解はしていると思いますよ」

 善が邪魔をして大切なものを守れないくらいなら、俺は悪人の方がいい。

 セイミョウは黙り、車は緩やかな下りに差し掛かる。木々の間を抜けた向こうに、狃薗の全景が姿を見せた。

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