第40話

 十二月最初の水曜、皐子を連れて車で狃薗へと向かう。河田の車は、まるで監視するかのように後ろをぴったりと走っている。セイミョウとは、村のある山への入口で落ち合う予定だ。

――言葉で人心を弄すのが猿神の特徴です。決してそそのかされてはなりません。

 予定を伝えるセイミョウの切々とした訴えには、胸に迫るものがあった。

「あれの言うことを信じるのか? お前にしては、随分と目こぼしをしているようだが」

「黙れ」

 チャイルドシートから当たり前のように話し掛ける猿神に、舌打ちをする。

 確かに信用しがたい部分はある。何をするつもりかと尋ねた俺に、セイミョウは「言えば悟られる」と決して口にしようとしなかった。死んでなお執着するほどの恨みを持ちながら、本当に皐子を救ってくれるのか。それでも。

――お嬢さんは、必ず助けますから。

 もう、その言葉を信じるしかない。親父が受け入れた相手の言葉だ。

 やがて辿り着いた山の入口に、日差しに照らされたセイミョウが佇んでいるのが見える。ここまでどうやって来たのか、もう尋ねる気にはならない。

 セイミョウは後ろについた河田の車をじっと眺めたあと、助手席へと乗り込んだ。後部座席の皐子に小さく頭を下げて、前を向く。

「後ろの方も、猿神に人生を狂わされた方ですね。猿神に強い憎しみを持っておられます」

「子供の頃に、家族を取り替えられたと」

「猿神らしいやり口です」

 嘆息で答えたセイミョウの手には、今日は数珠が握られていた。

「俺と河田は犠牲にしてもらっても構いませんが、娘だけは守ってください。私に何かあった時は、娘をよろしくお願いします」

 皐子を託しながら山道を上っていく俺に、セイミョウは頷く。それでも消えない不安を抱えたまま、紅葉も終わった冬の山を上がっていく。まだ雪は積もっていないが、この辺りは早いはずだ。

 やがて枯れた木々の向こうに、寂れた集落が見えてくる。狃薗の人口は約三十人、その八割が高齢者の限界集落だ。かつては林業で栄えたらしいが、今はもう見る影もない。ここに子供がいたのは、おそらく河田の世代までだろう。分校は三十年ほど前に麓の小学校に合併されている。現在はもう共同生活の維持ができない状態のはずだが、行政の介入を拒む「特殊な地域」でもあるらしい。田畑は見えるから、細々と食いつないでいるのだろう。

「不気味ですね」

「もう、死んでいるような土地ですから」

 素直な印象を漏らした俺に、セイミョウは諦めたように返す。セイミョウにとっては、二度と足を踏み入れたくなかった場所なのかもしれない。

「一つ、お聞きしたいことがあるんですが」

 バックミラー越しに、眠る皐子を確かめて切り出す。もうすぐで着くのに、眠ってしまった。まあこれから何が起きるか分からないから、その方がいいのかもしれない。本当は眠っているうちに何もかも終わらせたいが、そうもいかないだろう。

「はい、なんでしょうか」

「猿神に願われて自身が生まれたことで、親を恨みましたか」

 少しきつい問いかもしれないが、聞いておきたかった。皐子が大きくなった時、いつかは全てを話さなければならない日が来るだろう。笹原のことを忘れろとは言わないが、できる限り苦しまないようにしてやりたい。経験者の話になら、その手掛かりがあるのではないだろうか。

「そうですね。全てを思い出したあとには、そのようなこともありました。願いさえしなければ、生まれなかった命ですから。でも、母にとっては禁忌を破るほどに望んだ命でもありました。隠し通せるわけのないものを、必死に隠し通そうとして。母の救いは、私への仕打ちを見る前に死ねたことでしょう。恨みは、愛された記憶ほど長続きしませんでした」

 母親の記憶はそれほど多くなかったはずだ。皐子も多分、似たようなものだろう。少しでも良いものが残っていればいいが、期待はできない。愛されなかった記憶が、人生を歪める可能性は十分にある。

「私は、恨みと自責の念では、後者の方がより身を蝕むと思っています。愛された記憶に救われるのではなく、苦しめられるでしょうから」

 意味ありげにこちらを見たセイミョウを一瞥して、また前を向く。やはり肌にも顎の線にも瑞々しさを残していたが、今日は頬に目元から伸びた火傷の痕が見えた。

 まあ、ある程度の察しはついているであろうことだ。俺も少し、荷を下ろしておくべきだろう。明日はもう、消えているかもしれない身だ。

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