第39話

 セイミョウを見送って部屋に戻ると、皐子は眠っていた。布団から出た足を戻し、すっかり下がった熱を確かめる。安堵した時、目が開く。当然、皐子ではない。

「まさか本当に渡してしまうとは。女に甘いのは父親譲りらしい」

「これでいつでも俺を殺せるな」

 俺の言葉に、猿神は鼻で笑う。皐子とはまるで違う、擦れた表情だ。

「殺すつもりなら、もう殺している。娘を使うしか策がないと思うな」

「なんだ、殺すのが惜しくなったのか」

「まあそんなところだ」

「マジかよ」

 皮肉で投げたら当たった予想外の理由に、苦笑する。

「言っただろう。お前ほど、もがき苦しむ様子をつぶさに見たいと思う人間は初めてだ。行く末が気になって、簡単には殺す気にならぬ。あの男と殺し合う様も見てみたいしな」

 まるでとびきりの娯楽を見つけたかのように語り、猿神は俺を見た。少し目を細めて、思惑ありげに笑む。

「お前達は所詮、私の手のひらで舞っているにすぎぬ。いずれ、己の非力さを思い知ることになるだろう」

 尊大な口ぶりに、セイミョウの言葉を思い出す。以前、セイミョウは「猿神は己の力を過信している」と言った。確かにそうかもしれないが、なんの根拠もなくこんな発言ができるだろうか。

「楽しみだな、皐介」

 満足そうに継いで、目を閉じる。寝顔はすぐに皐子のものに戻った。分離するなら、今すぐにでも殴り殺すのに。

 安らかに眠る頭を撫で、押し寄せる得体の知れない不安に溜め息をついた。


 社長が俺を連れて河田のオフィスへ向かったのは、土曜の午後イチだった。与えられた猶予は土曜日いっぱいだが、河田の機嫌を損ねないためだろう。商売人としては、真っ当な決断だ。

 改めて詫びた社長と俺を河田は受け入れ、社長手ずから契約破棄の手続きを行う。

「では速やかに、ご指定の口座へ返金させていただきます。処理が終わりましたら、またご連絡いたしますので」

「承知しました。速やかなお手続き、感謝します。それにしても潔い方ですね。さすが一代で築き上げられた方は覚悟が違う。私なんてボンクラの二代目ですから」

 もう全然肝が据わっていなくて、と笑う河田のそれは冗談にしか聞こえない。ボンクラが資金洗浄で五千万洗うかよ、と言いたくなるのを飲み込んで苦笑で流した。

「ちなみに、うちと組んでもう一棟建てていただくなんてことは可能ですかね。高齢者向けの低層マンションを考えてるんですが」

「旧城下町の辺りですか」

「ええ、そのとおり。さすがですね、よくリサーチしてらっしゃる。土地はもう押さえてるんですよ」

 河田は俺の問いに満足げに答えてソファに凭れ、脚を組む。

 ここの旧城下町の辺りは古い家が多く、住民の年齢層も高い。持ち家も少なくないが、年をとると一軒家はメンテナンスが大変なのはどこも同じだ。しかも古い作りの家はバリアフリーではない。その上、ここは雪深い土地だ。高齢者に雪かきは重労働だろうし危険を伴う作業でもある。三階程度の低層階なら城山を見る景観も損ねないし、戸数が少なければ売れ残るリスクも少ない。今回の販売に食いつかなかった層が食いつく可能性は十分にあるが。

 それとなく視線を滑らすと、社長が商売人の目になっていた。まあ確かに、チャンスは逃さない男だ。

「仕様に関してはこちらから注文を出すことはありませんが、一点、高瀬さんに販売をお任せできることが条件です。確実に売却していただきたいので」

 河田は俺を見て笑うが、違う。こいつはまた「仕掛けてくる」つもりだ。

「そうですね。大変魅力的なお話、ありがとうございます。ただここで即断することはできませんので、一旦社に持ち帰って検討させていただきます」

 手堅い返答を選んだ社長に安堵し、俺も頭を下げる。社交辞令の挨拶を交わして、オフィスをあとにした。

「建てますか?」

「バカ言え、骨までしゃぶられる。あれは商売人じゃねえ、ヤクザだ」

 車へ向かいながら、社長は眉を顰めて返す。上り詰めても勘は鈍っていなかったらしい。そうですね、と安堵した俺に溜め息をついた。

「お前、玲香れいかがどこに飛ばされたか知らねえのか」

「知ってたら言ってますよ。市内の店には探り入れましたが、河田経由で入った新人はいませんでした」

 俺の答えに舌打ちを返し、社長は助手席へ乗り込む。逃亡の形跡がない娘の部屋を見て、夢は見ないことにしたらしい。

「俺の娘に、手を出そうとするからですよ」

 閉ざされたドアにぼそりと呟いて、運転席へと回った。


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