第38話

 揺れ始めた携帯に皐子を手放しながら応えると、予想どおりのセイミョウだった。玄関前まで辿り着いたらしい。

「お客さんが来たから、ちょっと玄関まで行ってくるね。寝てて」

 素直に横たわった皐子に布団を掛け、ケースの中から地蔵の袋を取り出して玄関へ向かう。意外にも猿神は大人しくしていた。猿神が親父の仏像を嫌っているのは間違いないのに。やせ我慢で黙っているわけではないような気がする。としたら、猿神はこれを渡された方が都合がいいのではないだろうか。

 薄暗い廊下を歩く足が迷う。まあひとまず、会ってからだ。

 たたきには見えない姿を探すため、靴を履いて玄関戸を引く。途端、すりガラスに影も映っていなかった姿が目の前にいた。白い頭巾の前を目を覆うところまで下ろした法衣姿に、一瞬ぞくりとする。

「夜分に申し訳ありません。高瀬さんですか」

「……はい。すみません、ご足労をお掛けしまして」

 ぎこちなく挨拶を返した俺に、いえ、とセイミョウは電話で聞いたままの清涼な声で返す。俺を見上げるように向けられた顔にはたるみもなく、細く尖った顎の線はすっきりとしていた。瑞々しく膨らんだ頬にはしみも見えない。さすがに年齢は聞けないが、どう見ても三十そこそこだ。

「早速ですが、六觀師の仏像をお渡しいただけますか」

「その件なんですが、渡そうとしているのに猿神が大人しいんですよ。もしかしたらこれがここからなくなった方が都合がいいのではと」

 危惧を伝えた俺に、セイミョウは頷く。

「その仏像は、どういった性質のものですか。仏壇に置かれていたとか、あなたのために彫られたとか」

「私のために彫ったものだと思います。小学校へ入学した頃、突然机の上に置かれていて」

「そうですか。おそらく六觀師はあなたの守り仏として彫られて、開眼供養もなさったのでしょう。それが手元にあることで、直接的な害を加えられないのだと思います」

 これまで手を出されたのは、皐子に首を絞められたあの時だけだ。それも皐子の意志が勝って、俺はまだ生きている。あの地蔵があることで、力が抑えられているのだろう。

「じゃあ、これを渡したら襲われると?」

「その可能性はありますが……」

 セイミョウは言葉を濁したあと、頭巾に覆われた目で俺を見る。見えてはいないはずなのに、見られているのが分かる。多分、顔貌ではなく別のものを見ているのだろう。

「あなたは大丈夫でしょう。良心の呵責なく悪行を積める方には、猿神がつけ入る心の弱さが少ないのです。仏像を手放しても、おそらく何も変わらないかと」

 少し非難めいた口調で伝え、やるせないように頭を横に振った。

 苦笑して仏像を差し出すと、まるで見えているかのようにセイミョウは両手で受け取る。ああ、と呟くように零して口元を綻ばせた。

「やっぱり、ちゃんと見えます。とても優しい表情をしたお地蔵様ですね。六觀師が、どれほどあなたを大切になさっていたのかが伝わります」

 親父は基本的には放任で、運動会は隅で眺めて懇談には来なかった。でも愛情は、口と態度で伝えなければ伝わらない。

――……皐介、逃げ、ろ。

 あれが、俺にとっては最初で最後だったのだ。

「父は、僧侶だったんですよね? なぜ仏師に」

「元は、大きなお寺にいらっしゃった方です。ただ法事や檀家の対応をなさるよりも、当時から黙々と仏像を彫る方がお好きだったと。還俗げんぞくなさったのは、檀家の女性と道ならぬ恋に落ちて勘当されたためと伝え聞きました」

「女好きでしたからね。困ってる女性がいたら、理由も聞かず受け入れてしまう人でした」

 誰でも彼でも受け入れた結果、籍まで入れて他人の子供を育てる羽目になった。俺の母親は多分、親父に押しつけておけば俺は死なないと思ったのだろう。自分がほかの男に現を抜かしても、とりあえずは育つだろうと。

「六觀師の仏様を拝見すると、なぜだかとてもほっとするのです。きっと、女性に対して深い愛情をお持ちだったからなのでしょうね。女性を愛す以上に、愛されたのではないでしょうか」

「そうですね。皆、父を愛していました」

 女達は嫉妬で争うこともなく、代わる代わる父に抱かれていた。女の肌を傷つけないために軍手をつけ続けていたような男が、憎まれるわけはない。

「あなたも、愛されていたでしょう。多くの母親に囲まれて、あなたは朗らかに笑っていました」

 潜めたはずのものに引っ掛かったのか、セイミョウは俺の記憶を語る。それを口にすると若々しいその見た目とまるでそぐわないのが露呈するが、もう隠す気はないのか。

「六觀師を殺したのは猿神であって、あなたではありません。六觀師が何よりも望まれた道を、どうか誤った思いで閉ざされませんように」

 仏像を大切そうに懐へ入れ、セイミョウは手を合わせる。では、と恭しく頭を下げて踵を返すが、その手に白杖はくじょうはなかった。

「お寺まで、お送りしますよ」

「いえ。迎えを待たせてありますので」

 少し振り向いてまた頭を下げ、門を出て暗がりに消える。なんとなく気になって門まで出て見回したが、予想どおりその姿は見えなくなっていた。

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