第35話

 状況を直接報告した俺に、社長は絶句した。まあそうだろう、俺を落とすために送り込んだ娘が顧客にハマり、あまつさえ借金を抱えて飛んで契約破棄の危機を引き起こしているのだ。

「高瀬との話は内密に進んでいると思いますが、社長のご対応によっては私も母に進言せざるを得ません」

 一吹きした煙は、すぐ寒風に散らされた。十一月も下旬になって、いよいよ休憩がつらい。見上げれば今にも雨の降りそうな曇天があるが、必ず降るわけではない。ただずっと、朝から晩まで曇っているのだ。息が詰まる。

「分かってる、お前達には申し訳ないことをした。娘の借金は俺が立て替えるし、娘も探し出す。ひとまず、これから俺もそっちに行く。今のところはほかの奴には、もちろん高瀬側にも黙っといてくれ」

「承知しました。ただ、相手の方は実業家で筋には厳しい方です。慰謝料で契約保持を持ち掛ければ火に油を注ぎますので、お嬢さんが見つからない限りは諦めてください」

 実際には「慰謝料」と言ったが最後、うまく縁を絡めてこの先ぎっちり搾り取るのが河田だ。でもこれ以上は好きにさせない。

 社長は、そうだな、と気落ちした声で答え、通話を終えた。これから六百万を準備して飛行機に飛び乗って……着いたら昼過ぎか。とりあえず社長を連れて河田のところへ向かい、借金を立て替えるのが筋だろう。そこではっきり、「娘が見つからなければ契約破棄を受け入れる」と社長が言えば河田も諦めるはずだ。

 河田の契約を失えば、さすがに本社にも顛末はバレる。大崎が今後ソープから抜け出せたところで、もう戻れる席はない。社長も、皐子を「どうにでもなる」と言う余裕はないだろう。まあ、最後まできっちり潰れてもらうが。

 一息ついて煙草を消した時、また携帯が揺れる。浮かんだ河田の気配に舌打ちして確かめた表示が『保育園』で、慌てて通話ボタンを押した。


――朝はいつもどおりだったんですが、折り紙を折っている最中に急に横になって。どうしたんだろうと思って確かめたら、すごい熱だったんです。

 保育園に駆けつけた時、皐子の熱は四十度まで上がっていた。すぐさま小児科に駆け込み、今は処置室で点滴を受けている。

 生活発表会の疲れだと担任は言っていたが、それでこんなに高熱が出るものなのか。食べるものが悪かったのか、睡眠時間が足りなかったのか。『5歳 高熱』で検索した結果はどれも楽観的だが、少しも楽にしてくれない。何より、皐子はまだ受けていない予防接種が大量にあるのだ。もしかしたら、この前受けたやつが悪かったのか?

 どうしよう、どうすればいい。誰か。

「皐介」

 俺を呼ぶ声に思い当たって、長椅子から勢いよく腰を上げる。相変わらずぐたりとして呼吸も弱い皐子の、目だけが爛々と輝いていた。

「お前のせいか」

「そうではない、セイミョウだ。あれの術が娘を苦しめている。言っただろう、娘の半身は私なのだ。私の関わりを阻害するということはつまり、娘の機能が半分阻害されるということ。この娘は私がいて保てている身だ。私がおらねば、お前と会う前にとうに死んでいた。これで少しは、私の言うことを信用する気になったか」

 心なしか掠れて聞こえる声に、効いているのは分かる。ただ、舌先で丸め込もうとしている可能性は十分にある。助かりたくて、嘘を並べているのかもしれない。

「じゃあ、なぜセイミョウはお前との関わりを断っても無事なんだ」

「関わりを断ったわけではない。あれの中にはまだ私が存在しているが、窓である目を潰したから繋がらぬ。だから捨てたのだ」

 筋は通っているが、信用できない。猿神は、俺の疑心を見透かすように嗤った。

「お前は狃薗で過ちを犯した結果が、あれと娘だけと思うか? それならば『願い事をしてはならぬ』しきたりも生まれぬだろう。何度となく過ちを繰り返す中で、しきたりと対処法が生まれたのだ。だからこの娘も目を潰せば……とはいかぬな。娘の口は母親が塞いでいるから」

 ほれ、と猿神が指先を動かした途端、薄く透ける痩せた手が、重なるようにして皐子の口を塞いでいるのが見えた。笹原か。

「お前の女達を殺したのは私ではない、これの母親だ。あれは私に、夫を差し置いてお前の子が欲しいと願ったのだ」

 猿神が咳をすると、ヒューヒューとこれまでにない音がする。

「……弔うまでに時間を掛けすぎたな。大半は通夜の晩にお前が滅したが、ここだけは残った」

「どうにかできないのか」

「なぜ私がそれをする必要がある? 本人も話すことを望んでおらぬのに」

 ああ、そうか。おそらく笹原は、「しゃべるな」と皐子を責めてあそこに閉じ込めたのだろう。でもそこへ追い込んだのは、間違いなくこのクソ猿だ。

「……必ず、お前を殺してやる」

 決裂した交渉に猿神は、くく、と短く笑いを刻んだ。

「このままだと、先に娘が死ぬがな」

 目を閉じれば、その気配も消える。残されたのは高熱なのに蒼白な顔で、ただ弱々しく息を吐く皐子だ。このままでは、ダメだ。

 一旦処置室を出て看護師に声を掛け、セイミョウへ連絡をするために外へ向かう。

 河田と社長の件は、急遽長尾に任せることにした。社長は不満だろうが、俺の最優先事項は皐子だ。クビにするならしてもらって構わない。

 通話履歴からセイミョウを選んで耳に当てると、無機質な女の声が回線が使われていないことを告げる。こっちもこっちで、相変わらず胡散臭い。一旦通話を終えて再び選ぶと、今度は少し遅れて呼び出し音が聞こえた。

 はい、と答えた涼やかな声に、少し安堵する。

「お忙しいところ失礼いたします、高瀬です。実は、娘が突然高熱を出して倒れまして」

 都合も伺わず続けた俺に、セイミョウは、ああ、と答えた。

「先程上げた経に反応してしまったのでしょう。もう少しすれば必ず落ち着きますから、大丈夫ですよ」

「でも、四十度の熱が出てるんです」

「お嬢さんの体から猿神を追い出すには、猿神を追い出してもなお維持できるだけの素地を作っておかなくてはなりません。幼い体だから反応が強く出てしまうのでしょうが、今のままで猿神を追い出せばお嬢さんは亡くなってしまいます。どうしても欠かせないことなんです」

 セイミョウの話は、猿神の言っていた内容とも一致する。ただ。猿神の話に惑わされたわけではないが、信用しきれない。

「あと、どれくらいするんですか」

「今日から毎日、祓う前日まで行います」

 尋ねた俺に返された答えは、とんでもないものだった。

「四十度の熱が、この先も続くってことですか」

「繰り返して経が馴染むほどに、熱は下がっていくはずです。どうかご理解ください。お嬢さんのために」

「娘は今、水も飲めない状態なんです。点滴で水分を入れてどうにか保っているのに、馴染むまで我慢しろと? 冗談じゃない!」

 苛立ちを叩きつけた俺に、セイミョウは黙る。そうだ、セイミョウは猿神を討つことが最優先なのだ。だから遺された俺に構わず仏像を持ち去り、今も。

「猿神を討つためなら多少の犠牲は仕方ないとは思わないでください。あなたにとっては多少でも、娘は私の全てです。たとえ猿神を追い出せたとしても、娘に障害が残るようなら、追い出す意味はありません。それならまだ」

「いけません、高瀬さん。猿神はありとあらゆる方法であなたを取り込み、生き残ろうとしています。お嬢さんの熱も、猿神が引き起こしている可能性だってあるのです。甘い言葉を囁かれても、決して取引に応じてはなりません」

 胸の内を見透かして、セイミョウはまた猿神との交渉を禁じる。

「でもこのままでは無理です、娘の体が持ちません。まだ五歳なんです。ほかに方法はないんですか」

「申し訳ありません。お嬢さんの命を助ける方法は、これしか。六觀師の仏像が残っていれば良かったのですが」

 溜め息交じりの声に、落としていた視線を上げた。どんなものでもいいのなら。

「小さなものでも良ければ、形見の地蔵があります」

「ああ、それでしたら」

 セイミョウの反応に、ほっと胸を撫で下ろす。

「これを、どうすればいいんですか」

「夜にでも、私が取りに伺います。送っていただくのは、猿神が邪魔をする可能性がありますので。住所を教えていただけますか」

 尋ねるセイミョウに、少し間を置く。

「セイミョウさん、どちらにお住まいですか。一泊されるなら、ホテルを予約しておきますが」

「いえ、私も市内におりますので」

「そうですか」

 では、と伝えた住所を繰り返し、セイミョウは通話を終える。

 既に廃寺となった寺の副住職だと主張する尼僧、か。沙奈子の祖父に尋ねれば分かることもあるだろうが、これ以上沙奈子の心を乱すようなことはしたくない。セイミョウが何者だろうと、俺は皐子さえ助かればいいのだ。

 携帯をポケットへ突っ込んで、急いで処置室へと向かった。

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