第36話
一時間の点滴が終わる頃には、皐子の熱は三十七度台まで下がった。
――新しい暮らしに慣れて、これまでの緊張がやっと解れたんじゃないでしょうか。
最初に世話になった小児科医だったから、認知を含めてこれまでのことを話したら「良かったですね」とまとめられた。本当はセイミョウの経が理由だったとしても、そっちの方がいいような気がした。
「皐子ちゃん、具合どうですか」
仕事を終えて帰宅した長尾が、こっそりと部屋を覗く。
「疲れが出たみたいだ。病院に連れてった時は四十度あったけど、今は三十七度台で落ち着いてる」
「うわ、大変でしたね。これ、見舞いです。食べられるものがあったら、あげてください」
差し出されたコンビニの袋には、ゼリーやプリンが入っていた。気を遣ってくれたのだろう。
「ありがとう、喜ぶ。そっちの方はどうだった」
「社長自ら出向いたおかげで、溜飲は下がったようでしたね。社長もはっきり『契約破棄は受け入れる』って言ってましたし」
「良かった。下手に下心出して慰謝料とか言ってたら、間違いなく搾り取られるからな」
さすがにそこまでがめつくはなかったか。大崎のことは覚悟しているのだろう。
「社長、ものすごく警戒してましたよ。あとで『よりによって、なんであんな男に引っ掛かるんだ』って、溜め息ついてました」
「社長も根は腥えタイプだからな。臭いで分かるんだろ」
社長は中卒で小さな不動産会社に入り、最初は事務や営業補助をしていたらしい。ある程度の年齢になって本格的に営業を始めたあと頭角を現し、転職を繰り返して遂に自分の会社を持つまでになった。マンションデベロッパーとして、今は売上高上位に食い込んでいる。高瀬が業務提携を持ち掛けても、まるで釣り合いが取れないクラスではない。義母が社長を気に入ったのは、分かる気がする。そういえば、義母もいいところのお嬢様だった。
「明日は病児保育予約してあるから、社長の対応は俺がする。今日は助かった、急に任せて悪かったな」
「気にしないでください。いつもしてもらうばかりですから、たまには俺もしないと」
長尾は笑顔で返して、去って行った。
袋を提げて枕元に戻ると、皐子が目を覚ましていた。起こしてしまったか。手のひらで下がった熱を確かめ、安堵の息を吐く。
「長尾さんが皐子にって、ゼリーやプリンをくれたよ。食べる?」
こくりと頷く皐子に手を貸し、体を起こさせる。みかんゼリーを選んだ皐子に、封を開けてスプーンとともに手渡した。
「少しずつ、ゆっくり食べてね。食べ終わったら、薬を飲もう」
また頷き、持ち方を覚えたスプーンでひとすくいして食べる。スプーンを持ったままの手で、顎を撫でながら俺を見た。ああ。
「『おいしい』んだ、良かったね」
少しずつ使えるようになった手話を、俺も繰り返す。話せなくても少しずつ、会話ができている。いつか傷が癒えて、話したいと思えるようになってほしい。そのためには、やはり猿神を討たなくては。
傍らで揺れる携帯を確かめると、予想していたセイミョウではなく河田だった。今日、俺がいなかったからだろう。面倒くさい男だ。
「お待たせしました、高瀬です」
「河田です。お見舞いがてら、ご報告がありまして。お嬢さんのご様子はいかがですか」
「おかげさまで、熱も下がって今は落ち着きました」
掬えないみかんに悪戦苦闘中の皐子に思わず手を伸ばすと、不機嫌そうに俺を見てまた自分で挑み始めた。
――いろいろと自分でしたい気持ちが芽生え始めてるので、見守ってあげてくださいね。
俺はまた、手を出しすぎていたのだろう。今朝も登園後のあれこれを手伝っていたら、保育士に言われてしまったばかりだ。意識しないと、つい甘やかしてしまう。
「ああ、それは良かった」
河田はわざとらしい安堵を返して笑い、少し間を置いた。
「例の、高瀬さんとお嬢さんを守るお約束をした件が無事に完了しまして」
切り出された話に、ああ、と気づく。どうせ適当に流しているだけだろうと思っていたが、本当に動いていたのか。
「そうでしたか。ありがとうございます」
「いえ。こちらもちょうど、始末したい奴がいましたので」
いきなり不穏になった流れに、思わず黙る。取引か買収でもするのかと思っていたが、関係のない奴を犠牲にしたのか。
「私はねえ、高瀬さん」
義母を思い出すような粘りつく声で、河田は俺を呼ぶ。
「割と嫉妬深い性質なので、部下には自分にだけ惚れ込んでてほしいんですよ。浮気はちょっと、許せないんですよねえ」
……店長か。だから気をつけろと、と言ったところでもう届く声ではない。裏切ったと判断したら店長クラスでもあっさりと始末する、河田のやり口は予想どおり迷いがなかった。
「あ、あと彼女も今頃は神戸の
外に飛ばしたか。それなら、社長も探しきれないだろう。
「泣いて詫びてましたけど、あなたの逆鱗に触れるようなことをしたのならまあ、仕方ないでしょうね」
まるで執着の見えない台詞を耳に流しながら、最終的に指でつままれたみかんの行方を見守る。無事に運び終えた指先が布団で拭われそうになって、ティッシュの箱を突き出した。
「誰に話を聞いても、あなたを悪くは言わない。久我すら、あなたの度量には感服してました。血の繋がらない……ああ、申し訳ありません。これを言うと私も逆鱗に触れるんでしょう。ともかく、私は高瀬さんのその情の深さと同居する冷酷さに、心底惚れ込んでるんですよ。私の思惑を見抜きながら見逃す聡明さもね。部下の躾も実にお見事だ」
皐子はちゃんと従い、引き抜いたティッシュで指先を拭う。「よくできました」を手話で伝えると、皐子は「おいしい」を返してまたゼリーに向かった。
「あなたは、そこで終わるべき人じゃないでしょう。ましてや、一線を退いてお嬢さんと静かに暮らすなんて」
「私の能力を買ってくださるのは光栄ですが、人生の舵は自分で切ります。あなたもそうでしょう、指図されるのは嫌いなんですよ」
仕事ならともかく、それ以外のことに関しては従うつもりはない。
「指図ではなく、提案です。高瀬さん、私と組みませんか」
「申し訳ありません、共同経営系のお誘いは全てお断りしているんです。トップを張るような我の強い人間同士が、最終決定権を譲り合い責任を分かち合いながらやっていけるとは思えませんから」
何より河田と組めば裏の世界に沈んでしまう。皐子を危険な環境で育てるわけにはいかない。俺が嗅ぎ続けた血や死の臭いは、皐子には不要だ。
「そうですか、それは残念です……そういえば、久我が言っていましたね。edgeのママを殺したのは、金色の目をした小さな幽霊だったとか。少し懐かしくなりましたよ、私は狃薗の出なもので」
まるで予想外のところから出現した繋がりに、皐子を見つめたまま唾を飲む。まさか、知っているのか。
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