第34話

 思い詰めたような表情の大崎が話を持ち掛けてきたのは、二日後の火曜日だった。

「あの……高瀬さん。少し、お金を貸していただけませんか」

 見込み客の契約を勝ち取って安堵の一服に浸る俺に、大崎は借金を願い出る。

「何に使うんですか」

「お金を借りていて、返さないといけなくて」

「どこの銀行ですか」

「ああ、いえ、銀行じゃなくて」

 煙を吹きながら尋ねた俺に、俯いて頭を横に振った。

 はねた髪を耳に掛け、居心地悪そうに息を吐く。最近少しずつ身だしなみが杜撰になっていて、今朝はマダムに苦言を呈されていた。

「河田さんのお店に、借金を」

「いくらですか」

「……六百万、です。すみません、喜んでほしくて、ついボトルを」

 六百万か。売り掛けにしたのは自分の貯金を切り崩したあとだろうから、相当貢いだらしい。予想以上の高額だった。

「付き合ってるんですか」

 尋ねた俺に、大崎は頷く。河田は無事、きっちり仕上げたらしい。

「それなら相談すべきは私ではなくて、河田さんでは? そもそも私がそれを補填してしまうと、顧客の店で借金を作った事案を隠蔽したと会社に思われます。本当はこの時点で会社に上げないと」

「そ、それは困ります! お願いします、黙っていてください」

 泣きそうな声で願う大崎に、溜め息交じりに頷く。本社の連中には、余程バレたくないらしい。まだそれくらいの余裕はあったか。

「聞かなかったことにしますから、まずは河田さんとよく話し合ってください。彼氏彼女で済まなくなれば、会社と顧客でこちらが詫びる立場です。所長が支払えないとなれば、河田さんが契約破棄を」

 言い掛けて、ふと気づく。最初から、これが狙いか。契約破棄での代金返却なら、現物売却よりも速やかに「きれいな金」が手に入る。

「……される可能性もあります。慎重な対応をお願いします」

 まあもう無理だろうが、致し方ない。ありがとうございます、と噛み合わない礼を返して、大崎は肩を落として帰って行った。

 脳裏に、河田の薄ら笑いが浮かぶ。

――私なら娘を生かす上に、まるで足がつかぬ方法で毒蜘蛛どもを始末してやれるのだぞ。

「黙れ、クソ猿が」

 ここにはいない猿神を腐し、短くなった煙草を落としてにじり消す。肩で大きく息をしたあと顔をさすり上げ、気持ちが落ち着くのを待って吸い殻を拾った。


 休み明けの木曜、大崎は無断欠勤をした。それは至って予想どおりのことではある。そして、河田がモデルルームに現れたのも。

「売り掛け金を回収しようとしたら、連絡が取れなくなりましてね。六百万ですよ。ここの所長さんだからと、こちらは信頼して高額の売り掛けを許したんですがねえ」

「大変申し訳ありません。大崎は本日無断欠勤をしておりまして、こちらも連絡を取ろうとしているところで」

「そちらの事情は私には関係のないことでしょう」

 俺の言葉を遮るように返し、河田は悠然と椅子に凭れる。これも茶番と言えば茶番だが、長尾とマダムが背後に控えている以上、きっちりと付き合う必要がある。

――オーナーが、風呂に沈めたようです。

 店長からは既に連絡を受けた欠勤だった。こちらの頼みは無事達成された形だが、当然これで終わるはずもない。

「とはいえ、高瀬さんには少なくないお金を使っていただいた恩義がありますしね。責める相手を間違えるような馬鹿はしません」

 河田は体を起こし、思惑ありげに俺を見る。

「土曜までに彼女を探し出して、六百万を持たせて私のところへ寄越してください。無理な場合は、残念ですがこの度の契約はなかったことにさせてもらいます。ケチのついた部屋にわだかまりなく入居できるほど、私は鷹揚ではないのでね」

 大崎の居場所は、ほかでもない河田が知っている。六百万は社長が準備するとしても、それを大崎に持って行かせるのは無理な話だ。

「承知いたしました。急ぎ、大崎を探します。必ずお支払いさせますので」

 売り掛け金の分、いやそれ以上をこれから大崎には稼がせるだろうし、こちらからの六百万ももちろん受け取るだろう。その上、税務署に睨まれる前にきれいな金も手に入る。完璧な手口だし、見事に利用されてしまった。とはいえ、下手に煽るよりは受け入れておく方がいい。

 茶番を終えて腰を上げた河田を、三人で見送る。

 河田は白々しい芝居が面倒くさくなったと見えて、最後には「ではまた」と笑顔で帰って行った。

「最近どんどんズボラになっていくと思ったら、そういうことだったのね。長尾さん、大丈夫?」

「あ……ああ、はい。大丈夫です。ちょっと混乱してて」

 心配そうなマダムに長尾は苦笑で答え、一足先に中へ戻る。

「やっぱり、まだ若いからかしらねえ」

「マダムは大丈夫ですか」

「ええ。山を越え谷を越え、五十数年も生きてたら腹も据わるわよ」

 二〇三号室の契約時に少し話をしたが、マダムのところは三男に障がいがあるらしい。

――障がいがあるって分かった時、義母に罵られたの。でも夫は少しも守ってくれなくてね。夫が定年を迎えたら離婚して、三男を連れて出て行くつもりよ。

 忍耐強い一方で一度胸に抱いた恨みを忘れないのも、この土地の女らしい感触だ。

「さすがですね」

「高瀬さんほどじゃないわよ。あなたみたいな人は、同僚じゃなければ正直怖いわ」

 さらりと答え、マダムは自分でドアを開けて入って行く。苦笑であとに続き、ドアを閉める。社長との折衝はともかく、長尾だ。多分、大崎が飛んで急に恐ろしくなったのだろう。このままだと、加担した罪悪感に駆られて計画を潰しかねない。肝が小さすぎる。

「長尾、ちょっといいか」

 バックヤードを覗いて長尾を呼び出し、マダムに聞かれないよう窓際へ向かう。

「所長が飛んで怖くなったか」

 尋ねた俺に、長尾は黙って視線を落とす。まあこいつは、俺と真正面からやり合えない程度の奴だ。本部長とのやり取りをこっそり流す悪事が限界だったのだろう。

「自責の念に駆られてどっかに白状したくなってるだろうけど、やめとけ。河田は今回の件で資金洗浄をするつもりだ。横槍入れたら消されるぞ」

「マジですか」

 悲痛な声を上げながらもたげた顔が青ざめていて、苦笑する。そうか、死の恐怖すら初めてか。

「所長に六百万以上稼がせる一方で社長から六百万もぎとって、資金洗浄できれいな五千万を回収して一人勝ちするつもりだ。お前が何もしないなら守れるけど、したら守れねえぞ。罪悪感で中途半端な正義感を振りかざすつもりなら、余計後悔することになるから黙ってろ」

 まあ、こうしてわざと河田の思惑を聞かせたのは、逃げられなくするためだ。これで無事に一蓮托生、俺だけでなく長尾も「知っていて加担した」ことになる。

「黙ってれば、ほんとに大丈夫なんですか」

「ああ。河田は俺が勘づいてることには気づいてるだろうけど、お前のことは気にしてねえ。このまま目立つな」

「高瀬さんは、大丈夫なんですか」

「俺は皐子に手を出されなきゃどうでもいいからな。手を出したら殺すけど、向こうもそれは分かってる。ちらつかせはしても、本気で尾を踏んでくるほどバカじゃねえよ」

 河田は、いざとなれば俺が人を殺せる人間なのを分かっている。死にたがりではなさそうだから、吹っ掛けてくることはないだろう。

「高瀬さん、堅気じゃないんですか」

「どこからどう見ても堅気だろ。ヤクザだったら、年俸三千万て言われた時点でテーブルひっくり返してるぞ」

「それ、だいぶ古いタイプのヤクザじゃないですか」

 長尾の指摘に苦笑する。確かにそうか。

「ようやく命を懸けられるもんができたってだけだ」

「良かったですね。高瀬さん、生き急いでる感じがしましたから」

 そうだな、と返して窓外を眺める。

 あの家のガラスはいつも木の粉で薄汚れて曇っていて、こんな風にきれいな景色が見えたことはなかった。それでも目を凝らして、訪れをじっと待っていた。その姿を見つけた時には、胸が踊った。

――あなたは、生きなきゃ。

 胸に蘇る懐かしい声を噛み締めて、長い息を吐いた。

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