第33話

 迎えた日曜日の生活発表会では、自分でも引くレベルで泣いた。皐子がステージに並んで立っているのを見た瞬間に涙腺が崩壊して、それからずっと泣きながらビデオを撮っていた。多分、俺が洟を啜る声が煩いほどに入っているだろう。明日から園の保護者達に「あのめっちゃ泣いてた高瀬さん」と言われるはずだ。

「ダンスする皐子、本当にかわいかったなあ。ずっと見てたかったよ」

 何度目か分からない感動を口にした俺に、向かいの席でお子様プレートをつつく皐子が小鼻を膨らます。いい加減しつこいかと思いながらも言ってしまうが、本人もその都度嬉しそうだから多分問題ないだろう。これが中学や高校になると「オヤジうるせえ」になってしまうのか。つらい。

「東京に帰ったら、バレエやダンスを習うのもいいかもしれないね。すごく上手だったし」

 多少の贔屓目はあるにしても、皐子はちゃんと踊れている方だった。あんなところに押し込まれて五年も過ごしたのに、たった二ヶ月ほどであんなにのびのびと……ああ、まずい。目頭を押さえ、また押し寄せてきた波に耐える。さすがにここで泣くわけにはいかない。

 一息ついて、俺も自分のおろしとんかつに箸をやる。「よくがんばりました」のケーキは、また水曜に買って食べる予定だ。微笑みながら眺めた皐子の顔はようやくふっくらと、頬が子供らしい丸みを描くようになった。とはいえ気をつけないと、俺は際限なく与えて太らせてしまう可能性がある。太ったってかわいいが、本人が苦労するかもしれない。甘やかしも程々にしなければ、と戒めている傍らで、携帯が揺れた。日曜夜のファミレスには似つかわしくない『河田』に、小さく舌打ちをする。時間は八時、出勤前だろうが何かあったのか。黙々と食べ進める皐子を確かめて、通話ボタンを押した。

「はい、高瀬です」

「河田です。お休みのところすみません」

 大崎か。まあ別に有給を取ったことがバレたところで問題はないが、知っていてかけてくるような用があるのだろう。

「いえ、大丈夫です。出先で煩くて申し訳ありません。何かありましたか」

「あの板前、留置所で殺されました。口を割る前に封じたようですね。同室に入れたばかりの外国人が心中しました」

 久我からのリークか。口を割らなくても封じたのなら、制裁の意味もあるのだろう。

「それとは別ルートで入った話ですが、奴らは板前を警察に売った人間を探してます。人数はそれほど多くありませんがしつこい連中ですから、時間の問題ですよ」

 カードを切ったことに悔いはないが、面倒が膨れ上がっている。そしてこれを今、河田がただの親切心で伝えているとも思えない。

「別に取られて困るタマじゃありませんけどね」

 溜め息交じりに答えて、皐子を見る。まだぎこちない箸でつままれたナポリタンが、無事口へと運ばれていく。

 河田は低く笑い、少し間を置いた。

「最初にお伝えしたとおり、私は高瀬さんに恩義を感じているんですよ。筋を通さず劣悪品を安価で売る連中には、ほとほと手を焼いてましたからね。かといって私が言えば、芋づる式に痛くもない腹を探られる羽目になりますし」

 そこまで浸かっていれば痛い腹だろうが、俺が言うことでもない。久我が目こぼししているくらいだ。あの界隈には河田が必要なのだろう。

「『守れ』と言ってもらえれば、あなたはもちろんお嬢さんの身も保証します。あの保育園は、十分に守られているとは言い難い状態にありますから」

 既に保育園まで把握済みか。まあ繁華街に近い場所にある園だ。雑居ビルの一階で、入ればすぐに子供達がいる。皐子の顔さえ知っていれば、乗り込んでかっさらうなんて簡単なことだろう。

「そこまで惚れ込まれる理由はありませんが」

「ご謙遜を。自分が女でないのが残念でなりませんよ」

 皐子がハンバークを食べたあとの口を袖で拭きそうになって、慌てておしぼりを掴む。無言で汚れた口元を拭う俺に、皐子は不機嫌そうに眉を顰めた。そうは言っても、今日は生活発表会のために買った一張羅だ。さすがに一回の着用で汚すわけにはいかない。

「娘だけ頼みます。私は一人でどうにでもできますから」

「一人守るのも二人守るのも変わりませんよ。お嬢さんのためにも、あまり生き急がれない方がいい。刹那的な生き方を好まれるのは分かりますが」

「……対価は?」

 コーンスープのカップを両手で慎重に運ぶ皐子を眺めて、真意を探る。

「私は尽くすのが好きなんです。持ちつ持たれつ、ただ少しだけ自分が多く持ちながら長く縁を繋ぎたいんですよ。古い性質なんでね」

 異動の度にリセットする俺とは対称的だ。俺は全部切り捨てて、終わらせて次へ行く。執着されるのは好きではない。でも今は、これくらいは飲むべきだろう。仕方ない。

「分かりました。ただ私も尽くす方が好きなことだけ、覚えといてください」

 ええ、と笑いを含んだ声で答え、河田は通話を終える。面倒くせえな、とぼそりと呟いた時、ふと皐子と視線が合う。俺を窺う目が、金色に光っていた。

「その男は、これからもお前を資金洗浄に利用するつもりだ。薬物の売上を」

「黙れ」

 抑えた声で遮った俺に、くく、と猿神は卑屈に笑う。器用に箸を使って、残りのハンバーグを食べた。

「哀れなものよ。ある者から守ろうとすれば別の者から狙われ、逃れるつもりが蜘蛛の巣に絡め取られていく。お前の周りには、隙あらばお前を喰らい尽くさんとする者ばかりいるな。人心の醜さは、いつの世も変わらぬ」

 なあ皐介、と上目遣いで俺を見ながら、猿神は頬杖を突いて行儀悪くポテトをつまむ。

「私なら娘を生かす上に、まるで足がつかぬ方法で毒蜘蛛どもを始末してやれるのだぞ」

「お前と取引するつもりはない。失せろ」

 おざなりにあしらって再び箸を持った俺に、猿神はまた短く笑いを刻む。ちらりと一瞥した先で、元に戻った皐子が恨めしそうな視線を俺に向けていた。

「えっ、何? どうしたの」

 驚いた俺に視線を落として、じっと空になった皿を見つめる。……ああそうか、あいつ。

「さっき、お猿さんが来て食べちゃったんだ。ごめんね、止められなくて」

 さすがに親の立場で「おいしそうだから食べちゃった」はありえなくて事実を言ったが、皐子は視線の恨めしさを緩めない。いや、俺はメルヘンではなく真実を言っている。

「……アイスも食べる?」

 ほかに手が思い浮かばずデザートへ逃げると、皐子は小さく頷く。安堵してタッチパネルからアイスを選んだあと、通話履歴から店長を選んだ。

「こんばんは、高瀬です。すみませんお忙しいところに」

「いえ、大丈夫ですよ。今裏にいるんで。どうされましたか」

「河田さんにボトル入れたいんですけど、ロマネあります?」

「はい、入ってます。でも今日のは四百ですよ」

 四百か。まあ、今回の義理にはそれくらい出してもいいだろう。

「それ入れといてください。明日小切手で払いに行きますから」

「承知しました。ありがとうございます。あと……すみません、大崎様のことですが」

 すんなりと受け入れて、店長は別件を切り出す。はい、と短く返して、プレートのカップゼリーへ手を伸ばした皐子を見る。自力で封を開けようとしてうまくいかず、見る間に眉根が寄った。

「最近、売り掛けが多くて支払いが滞ってるんです。オーナーの色恋だから回収は問題ないでしょうけど、高瀬さんにも一応。そろそろ、そっち飛ぶかもしれませんよ」

 差し出した俺の手に応えて、皐子はカップゼリーを託す。携帯を肩と耳で挟んで両手を空け、封を開けた。

「分かりました。もしほかの方に売り掛けを作ってたら、その分は私が払いますので言ってください。河田さん以外には死活問題でしょうから」

 皐子は受け取ると、早速スプーンを突き刺して最初の一口を掬い取る。このあとアイスを食べたらお腹が冷えるかもしれないが、今更聞いてはくれないだろう。

「オーナー一筋なので、ほかは大丈夫です。いつもお気遣い、ありがとうございます」

「いえ、当然のことですから。じゃあ明日、伺いますので」

 挨拶を終えて携帯を置き、ようやくきちんと箸を持つ。

 そろそろか。予想よりも、かなり早かった。

 ふと湧いた笑みを抑え、すっかり冷えたとんかつをかじった。

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