第31話
河田の連絡を受けて、契約は十一月十日に行われることになった。
ただ契約業務の引き継ぎ最中に、大崎が宅建を取得していないことが判明した。契約業務を行うには宅建の資格が要るが、大崎はそのことすら知らなかったのだ。結局、俺まで銀行へ出向くことになってしまった。
銀行側の担当者に案内された一室で打ち合わせを終える頃、河田が現れる。いつもどおりきっちりスーツを着こなしてはいるが、胡散臭いことこの上ない。
「お待たせしました、高瀬さん」
ジュラルミンケースを提げたまま、笑顔の河田が手を差し出す。
「お待ちしておりました、河田様。ご足労お掛けして申し訳ありません」
「とんでもありません。お会いできるのを楽しみにしてましたよ。あれ以来、店に来てくださらないので」
応えた俺の手をがっちりと握り、少し恨めしそうに返した。行けば面倒くさいことになるからだが、もちろん言えるわけはない。
「なんだか、並ばれるとものすごく映えますね。お二人とも華やかで」
俺達を見比べて感想を漏らす行員は、四十過ぎに見える女性だ。真面目で手堅そうなところはそそられるが、もうちょっと丸い方がいい。薄い瞼とくぼんだ頬が、少し残念だった。
「私は徒花ですよ。高瀬さんは牡丹か芍薬ってとこでしょうが」
すかさず河田が謙遜を入れる。実際には、どっちも彼岸花かトリカブト辺りだろう。
「では早速ですが、契約手続きに入りましょう」
ソファを勧めると、河田は腰を下ろして傍らにケースを置いた。それにしても、とケースを一瞥して腰を下ろす。「現金一括購入」と言っても、銀行で行う場合は口座振込のパターンが多い。こうして現金を持参しての契約は、注意が必要だ。じいさんばあさんのタンス預金なら問題ないが、裏とも繋がりのある河田の場合は
もちろん現金一括で物件を購入するような相手には、税務署だって目を光らせている。イチかバチかで挑むには、博打が過ぎる。あとで「お伺い」が来たところで申し開きができる金ではあるのだろう……と、信じるしかない立場だ。まさか「資金洗浄のためにご購入なさるおつもりではありませんよね?」とは聞けない。
大崎を隣に置いて、慣れた流れを繰り返す。重要事項の説明を終えて意志を確認し、いよいよ契約だ。
河田はケースから印鑑の入っているらしい木箱を取り出し、眼鏡を掛ける。四十を過ぎた頃からね、と軽く笑った。似合わないが、老眼鏡らしい。
「では、先に記入から行いましょうか。まずはこちらに日付とご住所、お名前を」
示した場所に、河田はペンを走らせていく。
「これまでは賃貸を転々としてましてね。責任の重い仕事をしているので、プライベートは適当に、一生根無し草みたいな暮らしでいいと思っていたんですが」
書き終えたのを確かめて、契約書のページをめくる。現れた次の箇所を、再び指し示す。
「四十も半ばになったし、そろそろ腰を据えて落ち着きたいと考えるようになりまして」
それとなく窺った隣で、大崎は少し俯いて頬を押さえた。
俺も河田も直接的な台詞を口にしない点では一致しているが、目的は対照的だ。俺は未来がないように仄めかし、河田はあるように仄めかす。大崎は完全に、自分と結婚するための準備だと思い込んでいるはずだ。
「ご結婚ですか?」
「まあその辺も、いい加減ちゃんと考えないといけない歳ではありますよね」
行員の質問に、河田は微動だにせず答える。大崎の中で着々と妄想が膨らんでいるのは分かるが、あまりにも簡単に落ちすぎて不安になってしまう。そもそも大崎は、俺を落とす役目でここに赴任したのではなかったのか。俺の推測が正しいなら、本部長とも何かしらの取引をしているはずだ。まあ不倫から足を洗うのならそこだけは歓迎するが、その辺りをどう報告しているのだろう。……案外、本部長は海藤よろしくこの荷物を俺に後始末させるつもりなのかもしれない。
舌打ちを飲み、署名を終えた河田に押印を促す。木箱から取り出された野太い印鑑は象牙か、河田は持参した印泥を使って鮮やかな印影を残した。商売人らしい縁起担ぎだ。
「では、お支払いをお願いいたします」
俺の言葉に、ええ、と河田は膝でジュラルミンケースを開く。さっきまでは微笑ましく契約を見守っていた行員も顔を引き締めて、紙幣計算機を手に現れた新たな行員と共に準備に取り掛かる。
「サラピンばかりなら良かったんですが、すみません。仕事で一時的に持ち出したり回収したりしてるものが多いので」
「いえ、大丈夫ですよ。では、数えていきますね」
行員は並べられた束の一つを手にとり、早速機械に掛ける。
「仕事でローンや売り掛けばっかりやってるので、自分のものは現金でさっくり買いたいんですよね」
「そうですね、私も車は現金で買ってます。仕事以外で分割だの金利だの計算するのが面倒くさくて」
しばらく時間の掛かる確認を待ちながら、河田の話に付き合う。効率だけ考えれば契約をする傍らで計算をするのが一番いいのだが、こちらががっついているように思われることがあるため避けている。「金は最後に奥ゆかしく」が、多くの日本人に好まれる方法だ。
「高瀬さんは、落ち着くのはまだ先ですか」
「そうですね。日本全国言われたとこに動かなきゃいけない仕事ですから」
「お嬢さんも一緒に連れて行くんですか」
横から口を挟んだ大崎に、思わず視線をやる。あ、と気まずげな表情をしたが、どのみちもう喋っていたはずだ。俺の情報が筒抜けなのは致し方ない。大崎自ら口にしなくても、河田が引き出している。
「小学校に入るまでは、そのつもりですね。まだ親が必要な時期ですから」
「やっぱり、我が子は目に入れても痛くないほどかわいいもんですか」
細めた河田の目が一瞬ぎらりと光ったが、今更だろう。雑談など最初からする気はない男だ。それとなく資金洗浄の臭いを消しながら俺を揺さぶり、大崎にもアプローチを仕掛けている。
「百回死んでもお釣りが来るくらいですね」
「それほどですか。私は、高瀬さんくらいの頃にはまだ子供を抱ける環境になくて。自由が奪われるのがネックでね。この年になって、ようやく持ってもいいかなと感じられるようになりました。4LDKは、一人で住むには少し広いですしね」
河田はまた目を細めて笑みながら、さりげなく大崎を一瞥する。決定打は何一つ口にしていないが、確実に沼へ落とし込んでいる。
「人生は、何が起きるか分かりませんね」
俺を見て意味ありげに笑む河田に、俺も似たような笑みを返す。
河田の五千数百万は無事に計算され、程なく全ての契約業務が完了した。
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