第30話

 葬式を終えた翌日、会社相手の手続きも済ませた。驚いた総務部長が電話を折り返してきたが、「昔付き合っていた相手が自分の子供を産んでいて、死亡したので認知した」でとりあえず片付いた。一部であっても笹原の願いを叶えた形になったのは胸糞悪いが、皐子のためだ。まあ、俺と同じ漢字が使われている名前に、それ以外の可能性を勘ぐる奴はいないだろう。

 宿舎を分ける相談もされたが、ひとまずはこのままにしてもらった。十二月までに売り切って東京に戻りますので、と言った俺に、売るだろうねえ、と総務部長は納得した様子で返した。

 全てを終えた、最後の報告先は義母だ。できることなら死ぬまで隠しておきたい相手だが、隠していたとバレたら皐子が消されてしまう。そういう類の相手だ。

「へえ、娘ねえ」

 事後報告をした俺に、義母はいつもの粘りつくような声で返した。

「正月には、年始のご挨拶を兼ねて連れて行きますので」

 一瞥した皐子がいつの間にか布団から出ていて、修正するために布団際へ戻る。ここに来てしばらくは寝返りを打つことすらなかったのに、最近は大暴れだ。ようやく、体があの押し入れを忘れ始めたのだろう。

 布団をめくり、片腕に抱き上げてそっと下ろす。離れようとした腕を引き止めるように、小さな手がシャツを掴んだ。眠っているから、無意識だろう。外す気にはなれず、その場に座って布団を掛けた。

「まあ変な女とくっつかれるよりは、娘の方がいいわね。やきもち焼かなくて済むもの」

 ふふ、と笑んだあと、それでね、と義母は続ける。

「あなたのとこの社長、鼻先に人参ぶら下げられた馬みたいな顔して現れたわよ。でもまあ、一代目はやっぱり腥いけど気概があるわね。悪くはなかったわ。ただ」

 気になる言葉を継いだ義母に、携帯を握り直す。何か、機嫌を損ねるような要素があったか。

「お嬢さんが、そっちにいるんですってねえ」

 そこかよ、とは返せない次を飲み、溜め息をつく。対応を間違えば、この女は死ぬほど面倒くさい。

「所長として赴任したんです。それだけですよ。ご心配されるようなことは何も」

「社長はあなたとくっつけたいみたいだったけど」

「親の心子知らずですよ。既に俺じゃない男に夢中になってます」

 河田からは、次の段階へ進むとの進捗報告が届いた。大崎と一晩過ごしたらしい。いちいち言わなくてもいいが、俺が気配を薄めて逃げないように先手を打っているのだろう。

「そうなの? でも、私は気に入らないのよ。庭に勝手に入ってきて、一番いい花を盗もうとするなんてね」

「私がお願いした話を進めていただければ、娘もきっちり沈みますので」

「あらそう。それならいいわ」

 義母は機嫌の良い声で答えて、笑った。結局言うつもりのなかったところまで言わされてしまったが、仕方ない。下手にそっちから手を回されるよりはマシだ。

「全部片付いたら、少し早めに帰ってらっしゃいよ。久し振りに、二人きりで過ごしたいわ」

 絡みつくような「お誘い」に、視線を落とす。ぽてりと布団に落ちた皐子の手を握った。

「皐介。あなたは私のものよ」

「分かってます。あそこから救い出してくださった恩を、忘れてはいません」

 保護者死亡でぶちこまれた施設は、視察や慰問の時だけ体裁を整え小綺麗を装うクソみたいな場所だった。長くいるほど偉くて俺のような新参はこき使われるのが常だったが、親父とあの人を喪って自暴自棄になっていた俺は、ボス格の連中を片っ端から潰していった。そのせいで大人達にはしょっちゅう殴られ、ろくにメシも与えられず、一畳ほどの懲罰房にいつも押し込められていた。義母に会ったのは、そんな時だった。

 心身ともにずたぼろになって荒んでいた俺は、鷹揚に振る舞う義母にかつての女達の面影を見て心を開いた。義母の方も、下心はあったにしろ、自分にだけ心を開く俺をかわいく思ったのだろう。

――お前、一千万だってよ。この顔に感謝しろよ。

 施設に送り込まれて半年ほど経った頃、柄の悪い懲罰房の担当官が不躾に俺の頬をつねりながら嗤った。最初はなんのことか分からなかったが、とんとん拍子に決まっていく話に「買われた」のだと知った。ただそれでもあの時は、救われたと信じていたのだ。

「それならいいの。娘と二人で倹しく暮らしたいから距離を置きたい、なんて言うんじゃないかと思って」

 見透かす言葉に思わず手に力を込めたあと、慌てて放す。皐子は布団に手を引っ込めて、寝返りを打った。

「そんなことはありません。年末には戻ります」

 力なく答えて、唇を噛む。胃を突き上げる吐き気を堪えて挨拶を終え、通話を終える。だめだ、吐き気が収まらない。

「困りごとがあるようだな」

 吐きそうな口を押さえて腰を上げようとした時、背後から不穏な声がした。

 振り向くと、こちらを向いた皐子……ではない、猿神が金色の目を光らせていた。

「消えろ、お前の相手をする気はない」

「それならまあ、一生慰みものでいれば良かろう。女を愛せぬお前には似合いだ。決して六觀にはなれぬ」

「黙れ」

 以前の失敗を防ぐため、抑えた声で冷静に返す。良からぬ話を持ち掛けてくるのは確かだ。乗るわけにはいかない。

「セイミョウが何をするつもりか、お前は何も知らぬだろう。あれは私を討つためだけに生き永らえている女だ、今更何を犠牲にしようと構いはせぬ」

 皐子から離れたところで、全部耳に入ってしまうのか。目が焼かれたところで、セイミョウとの関係は切れていないのかもしれない。

「あれもこれも我が身、我が血から生まれ出たもの。お前の体から父の血が取り除けぬように、これの身からも私を取り除くことなどできるわけがなかろうよ」

 猿神は金色の目を細めて意味ありげに笑う。やはり、そうか。憑かれているわけではなく、存在そのものが邪悪なのだ。一番恐れていた結果に、視線を落とす。じゃあ、どうすればいい。どうすれば皐子を救えるのだ。

「血が途絶えぬ限り、私は永遠に存在する。私を完全に滅すには血も全て絶やさねばならぬ。この娘も殺さねばあれの本懐は達せぬのだ。セイミョウは、それを言ったか?」

 言わなかったし、皐子から追い出せるように話していた。それは理解していないだけなのか、それとも。

 あのあと調べた高穎寺こうえいじは、狃薗のある町に存在していた。ただセイミョウと名乗る尼僧がいたかどうかまでは、調べきれなかった。十年以上前に、廃寺となっていたからだ。途端に増した胡散臭さで、今は信じきれないでいる。

ただ、猿神が俺を惑わすために話を作っている可能性は十分にある。親父の地蔵を嫌い、寺での祈祷を防いだくらいだ。

「分かっておらぬようだな。私が完全なる自己保存を望むのは当然のことだろう。お前が六觀の仏像をこの娘に握らせれば途端に、この娘の腕は使い物にならなくなる。私があって成り立つものから私を取り除くのだからな。器とはいえ、欠ければ不快だ。セイミョウを捨てたのもそれが理由だ」

 猿神の言葉が真実かどうかは実際に握らせてみなければ証明できないが、賭けの代償が大きすぎる。どこかが欠ければ自由になれるのなら、それも一つの策だろう。でも、無理だ。俺が耐えられない。

「もしセイミョウの言葉どおり正しく私を追い出せたとして、お前はあの女からこの娘を守りきれるのか? お前が慰みものとしてなぶられ続けるのはともかく、この娘は育っていくのだ。美貌で全てを恣にしお前に愛されるこの娘を、あの女が聖母のごとく許すとでも?」

 黙りこくった俺とは対象的に、猿神はますます雄弁に語る。俺の弱みをきっちり押さえていくから、反論しようがない。皐子から猿神を引き剥がせたところで、全ての脅威が消えるわけではないのは分かっている。

「類は友を呼ぶとはよく言ったもの。血腥いお前には、相応の人間が引き寄せられているのだろう。人一人消すことなど造作もない連中だ。私の話を聞きたくなったら、早めにな」

 猿神は薄く笑い、目を閉じる。そこにあるのはもう、幼く清らかな寝顔だ。俺は、皐子さえ幸せならそれでいい。普通の子供のように保育園や学校へ通い、恋をし、友達と遊んで、夢を叶えるために生きてくれるなら。

 たどたどしい手で「お父さん」「好き」を作って見せた姿を、忘れることはない。

「俺は、皐子さえ幸せならそれでいいんだ」

 まだ手にすっぽりと収まる小さな頭を撫で、布団に入る。残りの全てを放棄して、俺より高い熱を抱き締めて眠った。

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