第29話

 市役所の帰りに弁護士事務所に寄って相続そのほかの手続きを頼んだあと、いつもより早く皐子さわこを迎えに行った。今日はこのまま、葬儀場に泊まりだ。

 葬儀場の表にはちゃんと『笹原希世 儀』と出ていたが、呼ぶほどの客はいない。連絡したから久我は来るかもしれないが、長尾達には来なくていいと言ってある。

 プランは最低限の内容で一番小さい部屋だが、花だけは豪華にしてもらった。笹原のためではなく、皐子のためだ。最後の記憶くらい、きれいなものにしてやりたかった。

 控室で喪服に着替え、黒いワンピースに衣装替えした皐子を抱き上げてホールへ向かう。編み直したおさげの先には、今日は黒いリボンを結んだ。これも、慰めみたいなものだ。

「中に入ろうか。いい?」

 俺に抱きついたまま、皐子は肩口で小さく頷く。意を決して、会場のドアを開けた。

 明るい部屋の一番奥に、白を貴重にした豪華な花が飾られている。その中央には、少し若い笑顔の遺影。清掃業者から受け取ったアルバムの中から適当に選んで渡したが、額に収まればまともに見えるのだから不思議なものだ。

「もう顔は見られないけど、あの大きな入れ物の中にお母さんが入ってる」

 一歩ずつ棺に近づきながら、皐子に教える。棺の前で下ろすと、端の方に歩いて行って確かめるように触れた。既に白い布で覆われた棺がもう開くことはないが、やはり骨葬にしなくて正解だった。母親がまだそこにいることを感じるには、皐子にはこのサイズが必要だろう。

「明日にはバイバイだから、もう少しだけ一緒にいよう」

 声を掛けた俺に頷くでもなく、じっと遺影の笹原を見つめる。なんとなくでも、死は理解できる頃だろう。ただ皐子の場合、胸にあるのはそんなことではないかもしれない。

 やがて振り向いて駆け戻り、両腕を上げて抱っこをせがむ。抱き上げると途端にしがみつき、もう前を向こうとはしなかった。つらいことを思い出したのかもしれない。

 宥めるように背をさすり、近くの椅子に腰を下ろす。

「皐子、大丈夫だよ。何があっても俺が一緒にいる。今日、ちゃんと皐子のお父さんになったんだ」

 報告に、皐子は体を起こして俺の膝に座り、じっと俺を見上げる。

「『お父さん』だよ。これが、『お父さん』」

 人差し指で頬に触れたあと親指を立てる手話をすると、皐子も真似をして見せた。

「うん、上手。親指を立てるのは、顔の上の方でね」

 低い位置の仕草に、皐子の手を目線まで持ち上げてやる。皐子はもう一度、今度はちゃんと「お父さん」と俺を呼んだ。

「そう、お父さんだ」

 皐子は小さく頷いて、「お父さん」のあとに「好き」を続けた。途端、形容しがたい感覚が体の中で爆発的に膨れる。初めて知る感覚だった。

「ありがとう、皐子。俺も大好きだよ」

 揺れる声で返し、皐子を抱き締める。高揚か興奮か、ようやく当たりのついた感覚が落ち着くまで、ただずっと抱き締めていた。


 通夜は予想どおり久我が顔を見せただけで、つつがなく終わった。通夜振る舞いは親子二人だけで終え、皐子はシャワーを浴びたあと持ってきた絵本一冊で大人しく眠った。

 一方の俺は線香とろうそくの火を絶やさないように、たまに起きて新しいものに入れ替える役目がある。といっても現在は線香もろうそくも専用の長時間持つものが使われているから、そこまで頻繁に通う必要はないらしい。ひとまず二時にアラームをセットして、仮眠を取ることにした。


 ……何時だ。

 アラームで皐子を起こすのを気にしていたせいか、鳴るより早く目が覚める。時間を確かめようと携帯に手を伸ばした時、何かが足に触れた。

 すぐ確かめた隣には、常夜灯に照らされた皐子の足の裏があった。これはこれで問題だが、少なくとも俺の問題とは別だ。ゆっくり足下へ視線を向けると、暗い塊が蠢いている。見た瞬間、体が動かなくなった。しまった、金縛りか。指先まで固まる体では、舌打ちもままならない。塊は少しずつ俺の体を這い上がりながら、頭をもたげる。薄ら笑いを浮かべている長い髪のそれは、おそらく笹原だったものだろう。今は顔が無惨に崩れて目は溶け、体のあちこちに骨が見えている。胸が、だらしなく垂れ下がっていた。

「……こう、すけ……好き、好きなのぉ……私の……」

 乞うような声に吐き気がする。生きていようが死んでいようが、ごめんだ。俺も会えるものなら会いたいとは思っていたが、俺だけ動けないのはフェアじゃないだろう。どうにか、と力を込めた右手が少し動き始める。その間にも笹原はすり寄るように這い上がって、遂に俺と向き合う。

 少しずつ近づく腐った顔を睨み返し、荒い息を吐く。ああ、とたまらないように漏らして、笹原は骨の見える手でずるりと俺の頬を撫でた。皐介、と呼ぶ声が潰れたようにへしゃげたのは、俺の右手がその首を引っ掴んだからだ。

「っざけてんじゃねえぞ、笹原ぁ!」

 力を込めた手に笹原の首はあっけなく砕け散り、全てが粉塵のように消えていった。

 がばりと跳ね起き、隣を確かめる。皐子は何事もなかったかのように、相変わらずこちらに足を向けて眠っていた。

 夢にしては、生々しい感触だった。肉が潰れて骨が砕ける感覚は、まだ右手に残っている。まあ夢でもなんでも、もし会ったら容赦しない腹積もりだったからこれで少しは気が済んだ。次に出てきたら、迷いなく頭を潰す。

 布団に対し垂直になっている皐子の寝相を正して布団を掛け、静まり返ったホールへ向かう。今日明日の利用はうちを含めて三件らしいが、うちほど粗末に扱われている霊もないだろう。笹原は確かに皐子の母親だ。でもそれは、許す理由にはならない。

 手早くろうそくと線香を新しいものに替え、手を合わせる。

「俺が受け入れたのは皐子だけだ。お前は」

 不意に沙奈子の言葉が思い出されて、次を飲みこんだ。別に俺がここで叩きつけなくても、どうせこいつも地獄に落ちる。

「……行くべきとこに行け」

 溜め息交じりに継いで手を下ろし、遺影に背を向けた。

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