第27話

 迎えた土曜の夜は、河田との約束を進める日だ。

 ただ、当然だがホストクラブにきよを連れて行くわけにはいかず、かといって深夜まで保育園に預けるのも避けたい。頼ったのは、マダムだった。

「すみません、甘えてしまって」

「いいのよ。うちは息子ばっかりだったから、嬉しいわ」

 泊まり支度のリュックを背負ったきよに、マダムはにこりと笑う。きよもマダムとはここで一緒に過ごしているから、抵抗はないのだろう。持ち掛けたお泊まりの話にすんなりと頷いて、二人で一緒に準備をした。

「じゃあ一晩預かって、明日連れてくるわね」

「はい、よろしくお願いします」

 マダムにきよを託したあと、しゃがんできよの目線に合わせる。「いってらっしゃい」と「好き」を手話で伝えると、きよも俺を見つめて「好き」を返した。親指と人差し指で顎をさすりおろして合わせる簡単な動きだが、個人的な欲を優先させて最初に教えた。おかげで幸せな日々を送れている。死ぬほどかわいい。

「さっきの、手話ですか」

「ええ。筆談にはまだ時間が掛かりますから。コミュニケーションの手段はあった方がいいでしょう。きよも自分の気持ちを伝えられるのが嬉しいのか、積極的に覚えてます」

 未だ予言なく過ごせているのは、そのせいもあるだろうと思っている。死の予言よりもよほど「夢中になれるもの」を見つけたのだ。

 「ありがとう」を手話で伝えて送り出した俺に、ふうん、と大崎は意味ありげに呟く。予想より俺が積極的に育てているのを見て、手強さを感じたのだろう。大崎本人に恨みはないが、社長の思惑に乗っかった時点で同罪だ。まあ大崎が見た目ほど賢くも抜け目なくもないのは、この数日でよく分かった。

「じゃ、行きましょうか。少し歩きますけど、所長、ヒール大丈夫ですか」

「はい、大丈夫です。ていうか、ここの支所はすごく男性陣が優しいんですね。パートさんもすごく働きやすいって言ってたし」

 長尾の気遣いに答えながら、夜の街に向かい歩き始めた大崎がここ数日の感想を述べる。長尾には「ホストのようにもてなせ」と言ってあるし、俺もそれに準じた対応だ。マダムには「立場を維持するためなので勘弁してください」と伝えてある。バカねえ、と呆れたように言われたが理解はしてもらえた。

「男女の別なく、職場が働きやすくなるように気遣いするのは当然のことですよ」

「まあ、高瀬さんは飛び抜けてますけどね。ものすごくマメなんで」

 ですよね、と長尾に答えながら、大崎が上目遣いで俺を窺う。申し訳ないが、年下の上目遣いで俺が揺らぐ相手はきよだけだ。プライドが高いだけの化粧臭い女には一ミリも揺らがない。とはいえ本来の目的のために、見つめ返して少し微笑んでおく。

「それにしても、ホストクラブなんてすみません。所長には似合わない場ですが、これも顧客フォローの一貫ですので。河田さんは実業家ですし、気に入っていただければお客様をご紹介していただける可能性もあります」

「大丈夫ですよ。気持ちよくご契約していただきたいですし」

 自分は腹に一物抱えておきながら相手もそうだと疑わないのは、完全な手落ちだ。河田なら簡単に落とせるだろう。河田の動向は気がかりだが、今更引き返せない。やがて見えてきたネオンに、覚悟を決めた。


 迎えた黒服に名前を告げて河田を「指名」すると、違う黒服が引き継いで俺達を奥へと案内する。一瞥した店内は、黒を貴重としたラウンジのような設えで高級感があった。今の客層は三十代後半から五十代くらいか、主婦層は抜けているから仕事帰りの独身だろう。田舎の店と侮っていたが、客層は悪くなさそうだし挨拶をしてくるホストの質もそこそこだ。

 視線の合った五十代くらいの女性客に微笑み返したあと、勧められるままにVIP席へと向かう。

「お待たせして申し訳ありません。もうすぐオーナーも参りますので」

「お忙しい中、申し訳ないですね」

 颯爽と現れた店長が恭しく差し出す名刺を受け取り、ファーストドリンクを注文する。俺と同世代に見える店長は河田と同じ黒髪七三ながら、細身の黒スーツにグレーのネクタイと、それらしい出で立ちだった。造作は悪くないが、飛び抜けて秀でているわけでもない。でも河田が引き立てたのだから、賢くはあるのだろう。

 程なく追加のホストがドリンクとともに現れて、接客につく。河田自身が大崎を落とす以上、俺の本懐を従業員に話すようなことはないだろうが分からない。一見和やかに始まった会話を耳に流しながら、煙草を咥えた。

 即座にライターを差し出す店長に火をもらい、煙を吹く。

「お噂はかねがね伺っております。edgeに馴染みがいまして」

 少し抑えた声で切り出された久し振りの店名に頷いた。

「皆が高瀬さんには本当に感謝していると言ってました。ママしか連絡先を知らないからお礼が言えないけど、と」

「ママには世話になったので、ママの大切にしていた子達を放っておけなかっただけですよ」

 ただそれだけのことだが、できない奴がいるからできるこっちが目立ってしまう。店長は頷き、テーブルの上を整える素振りで俺に少し近づいた。

「お礼代わりにお伝えしますが、オーナーが高瀬さんのこと、ものすごく気に入ってるんです。気をつけてください、あの人割としつこいんで」

 煙草の灰を弾きつつ、身内からの密告に小さく頷く。河田にそれなりの義理はあっても、思うところがあるのだろう。あの子達の状況が、明日の我が身にならないとは限らない世界だ。

「一番高い酒、入れましょうか」

「被せてくるのはやめてください」

 店長が苦笑で答えた時、フロアに河田が現れる。客に挨拶をしながら席へ近づく河田に腰を上げると、大崎達も続いて腰を上げた。

「遅くなりまして、申し訳ありません。大崎様、高瀬様、長尾様ようこそ」

 営業用の笑みを浮かべた河田は、大仰に両手を広げて俺達を迎え入れる挨拶をする。会ってもいない長尾の名前は、モデルルームの掲示物から仕入れたのだろう。抜かりない男だ。

 昼間は腥さが臭って仕方なかったが、やはり夜が抜群に合う。仄暗い照明と雰囲気が、癖の強さを色気に変えてくれるのだ。

「お招きいただきまして、ありがとうございます。こんないいお席に通していただいて」

「大切なお客様ですから、当たり前です。さあ、おすわりになってください、飲みましょう」

 河田はごく自然に、大崎をエスコートして俺との間を選んで座る。

「ボトルを入れますが、せっかくですから大崎さんのお好きなものにいたしましょう。おごりますよ。赤ワインとシャンパンはどちらがお好きですか」

「ええっと、赤ワインかな」

「いいですね。私も大好きです」

 河田はにこりと笑うと、黒服に「ロマネ」と注文した。思わず視線を向けた俺に、河田はこちらを見ないまま笑う。ロマネ・コンティなら、ここでも一本三百万はくだらないだろう。どこまで積む気だ。

 舌打ちしそうな口で煙草を噛み、素知らぬ顔で始まった大崎との会話を耳に流す。今はオーナーとはいえ、元は歌舞伎町で働いていた本職だ。父親の死亡を機に戻ってきて事業を引き継いだが、潰すどころか親より才覚があったらしい、とママに聞いた。客あしらいは、やはり抜群にうまい。

 ロマネ・コンティが辿り着く頃には、大崎はすっかり気を許して「営業一位がいる支所に所長として送られたプレッシャー」について語っていた。


 酒に強い大崎が着々と減らしていくボトルを横目に、新しい煙草を咥える。フロアを一回りして戻って来た店長がまた、甲斐甲斐しく火を差し出した。

「俺を助けると思って、売上入れさせてもらえませんかね」

 頭を寄せて小さく尋ねると、少し間を置いて礼を言った。

「店長指名で、リシャール入れてください。苦手なのでコールはナシで」

「ありがとうございます」

 密談を終えて去って行く店長を見送り、ソファに凭れて煙を吐く。大崎の仕上がり具合に文句はないが、それとこれとは別の話だ。

「積まれすぎるのは、性に合わないんですよ。貢がれるのは好きじゃない」

 ぼそりと零すと河田は笑い、大崎を見つめたまま次を注いでいく。

「本当に、きれいな飲み方をされますね」

 大崎への褒め言葉には、俺への皮肉が含まれていた。

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