第25話

 今日も第二部の中で待っていたきよは、やっぱり機嫌が悪かった。うどん屋で夕飯をとり家に帰って風呂に入れて絵本四冊で撃沈するまで、ずっと不機嫌だった。口にできないだけで寂しいのは分かっている。明日の朝は、離れたがらないかもしれない。本当はもっと遊んでやりたいし手話の勉強もしたいが、時間が足りない。全てが片付いたら休みを取って、のんびり旅行に行くのもいいかもしれない。そのためには今、すべきことがある。

 寝息を立てるきよから、そっと離れる。さすがにこの距離で化物について話すのはまずい気がして、部屋を出た。長尾は飲みに出ているから、今日は居間で電話ができる。

 傍らにメモ帳を置き、気を紛らわせるための酒もひとまず準備する。ロックグラスに注いだバーボンで口を湿らせたあと、着信履歴からセイミョウを選んだ。

 程なく繋がったセイミョウに乞われて、これまでの経緯ときよのことを話す。

「母親の笹原希世は死亡していて、警察の話では父親は分からないそうです。笹原は不妊だったのに夫が海外へ単身赴任中に妊娠して、それが理由で離婚してこちらへ戻っていたようだと。笹原が私を見つけたのは、偶然だったんでしょうか」

「いえ、あれがあなたを苦しめるために生まれ出たと言ったのなら、会わせたのでしょう。ではここからは、私が知っていることをお話いたしますね」

 俺の説明を聞き遂げて、セイミョウがバトンを受け取る。これから何が話されるのか。緊張で乾いた喉に、少し薄くなったバーボンを流し込んだ。

「県境に、狃薗ならそのという地区があるのはご存知ですか」

「実際に行ったことはありませんが、笹原はそこの出身だったと警察に聞きました」

 地図で検索したそこは山深い場所で、三十人ほどが暮らしている限界集落らしい。しかしまた、狃薗か。あれは、狃薗に関係するやつなのか。

「狃薗の山には、古くから猿神が居座っています。神と聞けば善なるものと思われるかもしれませんが、動物神には妖怪のようなものもいます。狃薗の猿神も神と呼ばれ祀られてはいるものの、実際のところは山の主、妖怪としての性格が非常に強いのです」

 出会ったことがなければすぐには信用しなかった話だが、見ているし話もしたし、もう何人も殺された。猿神、か。きよの肩に乗っていたあれは、簡単に首をへし折れそうな大きさだった。

「神仏は必ず願いを叶えてくださるわけではありませんが、人の子を貶めるような真似は決してなさいません。翻って猿神は気まぐれに人間の利己的な願いでも叶える一方、残虐極まりない性格で決して人を救いません。猿神を祀る理由は、みだりに人の子を弄んだり田畑を荒らしたりしないよう抑えるため。猿神には、決して願ってはならないのです」

 要は、祟り神の類なのか。笹原は知っていて、その禁を破ってしまった。許さないが、心情が理解できないわけではない。

「おそらく彼女は、不妊を病んで里帰りした時に猿神に願ってしまったのでしょう。想像でしかありませんが、おそらく猿神は彼女にあなたの気配を感じ、願いを叶えることにしたのだと思います。彼女がやがて産むであろう子を通じて、六觀師の子であるあなたに復讐をするために」

 猿神の恨みは、親父とあの人が死んでも収まるものではなかったのだろう。きよを利用して俺をなぶり、苦しみの中で殺すつもりでいる。

「以前、やはり子に恵まれず猿神に祈った女がいました。女は程なく妊娠し、娘を産んだのです。その娘は金色に光る目を持ち、幼いながらに人の死を気まぐれに予言して多くの命を奪い、村を恐怖に陥れました。女が猿神に願ったことはすぐに知られ、女は殺され娘は目を焼かれて川へ突き落とされました。そして流されているところを中腹にある寺の住職に救われ、育てられました。その娘が、私です」

 淡々と語られる凄まじい過去に、グラスを持つ手が固まる。目を。

「今も目は見えませんが、おかげで猿神との縁が切れて死を予言することはなくなりました」

「娘は、予言以外で口を開くことはありません。目を潰さない限りは話せない、ということですか」

「いいえ。お嬢さんは何かしらの事情があって、口を閉じているのだと思います。私も当時はしばらく話せなくなりましたし、長らく記憶が戻りませんでしたから」

 大人しい口調で淀みなく語られるが、原因となった衝撃を思えば何も言えなくなる。乾いた喉に唾を送り、バーボンを流し込む。

「私は住職の寺で育てられ、尼となりました。目は見えませんでしたが、穏やかで幸せな日々を過ごしました。でも住職が遷化してしばらく経った頃、突然記憶が蘇ったのです。平穏だった心が濁流に飲み込まれ、ちぢに乱れて一時も休まらなくなりました。母を殺し自分の目を焼いた狃薗を焼いてやりたいと思ったのも、一度や二度ではありません。ただひたすらに、御仏に救いを求め縋り続ける日々を過ごしました。苦しみと葛藤に、長い月日を費やしました。そしてようやく『猿神を討ち災禍を終わらせることでしか救われない』と、腑に落とせたのです」

 「人を殺せばバレる」なんてのは、守られた社会で生活している連中だけが信じる「都市伝説」みたいなものだ。実際にはバレていない殺しなんて山のようにあるし、加害者は何食わぬ顔で生きている。俺のように。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る