第21話
浅月からの着信を受けたのは翌日、二回目の歯医者できよとの攻防に疲れ切っていた待合室だった。
「はい、高瀬です。おつかれさまです」
「お世話になります、浅月です。あの、大丈夫ですか」
「今、きよを連れて歯医者来ていて、ようやく二度目の治療が終わったところで」
さすり上げた額は、まだ汗で湿っている。しかめっ面でキッズスペースの絵本を読んでいるきよも、まだ汗だくだろう。これで虫歯の治療は終わりだが、来週はフッ素の塗布がある。まあ削らないのだから、今日よりは楽だろうが。
「おつかれさまでした、大変でしたね。それで、母親と思われる笹原さんの件なんですが……お亡くなりになってました」
予想される中で最悪の結末に、きよを確かめる。どんな女であっても、きよにとってはたった一人の母親だ。恋しがる様子は一度もないが、話せば複雑なものは湧くだろう。しばらくは、黙っていた方がいいかもしれない。
「何度かお電話をしてみたんですが、繋がらなくて。今日、アパートを訪問したんです。ただやはり反応がなくて気配も感じなかったので、引っ越されたのかもと思って管理してる不動産会社へ行きました。事情を話して調べていただいたら、在住は確認できたんですが、先月分の家賃がまだ振り込まれていない状況でした。そこで、最悪の可能性を考えて警察官立ち会いの下で部屋を開けてもらったんです。そしたら」
「自殺、ですか」
溜め息で終えた報告を、俺が継ぐ。
「それが……まだ分からないんです。でも変なんですよ、私達が近づくまでただベッドで眠ってるみたいだったのに、近づいた瞬間に……すみません」
突然早口になったのは、自分でもまだ整理できないものを抱えて落ち着けないからだろう。まともな死に方でなかったのは、確かだ。きよに憑いていたあいつのせいか。
「いえ、大丈夫です。とにかく、何か異様な死体だったんですね」
「はい。近づいた瞬間に『死体になった』んです。臭いも、すごくて。警察の方は、二週間近く経ってると」
それなら、俺にきよを押しつけてすぐの頃だろう。
「警察の方が身元を確かめてご家族に連絡を取られるようですので、その子が本当に笹原さんのお子さんであるかどうかも明らかになると思います」
「ありがとうございます。必要があれば、私の連絡先も流してもらって構いませんので」
分かりました、と了承を返したあと、浅月は長い息を吐く。仕事中に死体を見つけるなんて、思ってもみなかっただろう。精神的にかなりの負担が掛かっているはずだ。
「もし良ければ、今晩一緒に食事でもいかがですか。『仕事だから』では割り切れないダメージでしょうし、私も知らぬふりで流したくありません。まあ、子連れでもよろしければ、ですが」
「……いえ、お気持ちはありがたいですが、遠慮します。子供の世話をしないといけないので」
控えめに辞退された誘いに、ああ、と答える。左手に指輪はなかったが、子供がいたのか。
「そうでしたか。それなら、お子さんと過ごす方が癒やされますね」
「すみません、誘っていただいたのに」
「いえ、お一人でつらい思いを抱えたまま夜を過ごされるのが心配だっただけですから。お子さんがいらっしゃるのなら、野暮な申し出でした」
俺だって、同じ立場ならきよと旨いものでも食べて昨日みたいに一緒に眠る方を選ぶだろう。添い寝は、予想外に俺が癒やされた。
「本当に、その子をご自身のお子さんとして育てられる気ですか? 仕事もあるし男性だし……あ、すみません、良くない言い方でした。ただ実の親でも、子育てって本当に大変ですよ? 手は掛かるし、責任は重いし。確かにかわいい子ですけど、女性と付き合ったりペットをかわいがったりするのとは違うんです」
「そうですね。たった二週間ほどですが、歯医者の椅子からは逃げようとするし、家ではおもちゃを散らかすし、好き嫌いも多いし、絵本一冊ではまず寝てくれないし、大変です。本当に大変なのは、これから先ですし」
これから本屋に寄って、絵本と一緒に手話の本も仕入れてくる予定だ。戸籍を整えたら、療育にも取り掛からなければならないだろう。
203号室を契約した女性は、自分が死んだあとも次男が困ることがないようにと多くのことに気を配っていた。高機能でも使い方が複雑なものはダウングレードして単純なものを選び、玄関横の壁にオプションでフック作成を所望した。仕事から帰ってきたら荷物をそこに全部引っ掛けて、朝出る時にそこで全部身につけて出られるようにしたいらしい。
実際の手段は違っても、方向性は同じだ。俺は、きよがこの先一言も話せなかったとしても生きていけるように育てなければならない。簡単なことではないだろう。
「ただ血の繋がりに関しては、私自身が血の繋がらない親に育てられたので、全く重要視していないんです。これまで与えられたものを今度は私が与えて、ともに生きていくつもりです」
「そうでしたか。すみません、何も知らないくせに勝手なことを」
「いえ、子供の安心を第一に考えてくださっての言葉ですから。ありがとうございます」
少しの間を置いて、いえ、と短く答えて電話は切れた。
釣った魚に餌をやらず仕事仕事でろくに子育てを手伝わない夫か、元夫。別に珍しくもない、世に溢れている夫の一種だ。それでも結婚のカードを切れるだけ、俺よりはマシな男なのかもしれない。
「高瀬さーん」
受付から聞こえた声に、携帯をポケットへ収める。相変わらずしかめっ面のきよを一瞥して、会計に向かった。
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