第19話

 一日保育を終えたきよは、この上なく不機嫌だった。夜の蝶達の保育が始まる第二部の中に取り残されてしまったからだろう。明日は二度目の歯医者なのに、不安が募る。

「火を使ってるから、危ないんだけどなあ」

 脚にしがみついたまま離れないきよを見下ろしながら、フライパンを振る。程よく焼き目のついた麺に満足して、火を止めた。今日の夕食は、焼きそばとインスタントの味噌汁。男親だとこんなものだろう。でも、笹原がろくなものを食べさせていなかったのは明らかだ。きよは俺と暮らし始めてから体重が少し増え、顔色も良くなった。痩せた体はぽこんと腹だけが目立っていたが、その対比が和らいだ。トイレをちゃんと覚えていたのは、おむつのままでは笹原の手間が増えるからだろう。

 沙奈子ときよを傷つけてまさか無事でいられるとは思っていないだろうが、俺もまともに対峙できる自信はない。

――あんたは、自分の残酷さを『誰かのため』って大義名分で正当化するでしょ。そういうとこが、すごく怖かったし嫌いだった。

 思い出した沙奈子の言葉に長い息を吐き、きよを片脚にくっつけたまま皿を取りに向かう。安っぽい皿を二枚、汁椀の一つはきよ用のかわいいやつだ。箸も、少しずつ使えるようになっている。

――きよちゃんが話せないのは、発達の問題ではなく心の問題ではないかと思います。一度、専門家にご相談されてみては。

 担任曰く、耳に問題はなさそうだし、反応しなくても指示には従えるらしい。むしろまわりの子よりも大人の言うことを理解している、と言っていた。ただ下手に相談すれば、あの二枚舌が研究材料にされてしまう可能性もあるだろう。警察は押さえたとしても、どこから次の脅威が生まれてくるか分からない。余計なことはできない。でもきよが少しずつ社会に馴染んでコミュニケーションを望むようになった時、伝える手段を持たないのがネックになるのは確かだ。話さずにできる手段は、筆談と手話くらいだろう。

 文字は興味を持って絵本を読んでいるから、教えるのはそう難しくはないかもしれない。あとは、手話か。

 焼きそばを取り分け、フリーズドライの味噌汁を湯に溶く。きよの方は少し湯を控えて水を足し、火傷しない熱さに整えた。

「きよちゃん、熱いの運ぶから危ないよ。お箸出してくれる?」

 俺の指示にきよはようやく脚を開放して、食器棚の引き出しに向かう。ピンク色の踏み台に上って引き出しを開け、ちゃんと俺と自分の箸を選んだ。

「ありがとう、助かるよ。じゃあ、テーブルに並べられるかな」

 移動で抱っこをせがむのは相変わらずだが、できることも随分増えた。マダムの忠告を胸に、俺も手を出しすぎないように耐えている。俺がしてしまえば十秒で済むことでも、三分掛けて行うことに意味があるのだ。子育ては奥深い。

「ありがとう。今日はまっすぐに並んでるね、すごいな」

 認めれば誇らしげに膨らむ小鼻を確かめ、頭を撫でる。食べようか、と促すとこくりと頷き、小さな手を合わせた。少しふっくらとした手に、かつて俺の机に置かれていた小さな地蔵の手を思い出す。まあ机と言っても「学習机」として売り出されているような立派な代物じゃなく、親父が仕事の片手間に作ったコの字型の文机に本棚をくっつけたものだ。その片隅に、いつの間にか置かれるようになっていた。多分、小学校へ入学してしばらくした頃だ。

 親父は腕の良い仏師だったらしく、あんなスラムみたいな場所にいた割に、仕事には事欠かないようだった。時々仕事関係の人間が来て、なんとか彫らせようとがんばっていたのを覚えている。無愛想で無骨で、怖くはなかったものの、どこか近寄りがたい圧があった。だから机と本棚を作ってくれたのにもそれなりに驚いたが、その地蔵を見つけた時ほどではなかった。柔和な表情で小さな手を合わせる地蔵の丸い頭を、思わず撫でた。

 あの地蔵は、どこに入れていたか。施設に入っても、高瀬の家に引き取られても、離さなかった形見だ。俺が親父にしたことを忘れないためのものではあったが、守り仏としてはいいかもしれない。

 風呂から上がったら、探してきよに見せてみよう。欲しがれば、きよのものにすればいい。親から子へ、と言うには少し歪だが、どうせ俺も親父と血の繋がりはない。

――お金が払えなくて、産まれたばかりの赤ちゃんを抱えて病院から逃げ出してきてね。ロクさんが不憫に思って長屋に入れて、産み逃げした病院にも代金を支払ってやったの。皐介の名づけ親もロクさんよ。そしたらあの子、ロクさんに懐いちゃってね。子供には父親が必要だからって、半ば無理やり籍入れさせたの。びっくりするくらい美人で天真爛漫な子だったけど、少し頭が弱くて惚れっぽくて。三日帰って来なくて「今度はどこの男に熱上げてるんだろうね」って言ってたら、死体で帰ってきた。薬を打ちすぎたのよ。

 親父の葬式準備をしながら教えてくれたのは、一番古株の女だった。ほかの女達は警察を避けて、とっくに離散していた。彼女は親を亡くし、がめつい親族に家を奪われて追い出された身だから、逃げる必要がなかった。長屋に身を寄せたのは、手足に不自由があって自分一人で食べていける仕事にありつくのが無理だったからだ。当時は杖を突いて近くの作業場まで、菓子折りの箱を折る仕事に出掛けていた。

――本当は、ロクさんが聞かせるつもりの話だっただろうけどね。

 苦笑交じりに知らされた俺の母親は、顔が良くて頭の弱い、典型的な「食い物にされやすい女」だった。俺の顔は母親似なのだろう。でも血の繋がりなんて、その程度のものだ。俺は、それよりも強い繋がりの中で育った。

「きよちゃん、やきそば落ちたよ。もうちょっと椅子を前に出そうか」

 腰を上げ、補助座席をつけた隣の椅子をもう少し前へ出す。きよは小さな指でテーブルに落ちた焼きそばをつまみ、口へ運んだ。

「そっ、の手は服で拭いちゃダメ」

 当たり前のように服で拭きそうになった手を掴み、ティッシュを渡す。毎回、トレーナーの腹辺りが汚れているのはこのせいか。きよはティッシュでおざなりに手を拭いたあと、味噌汁に向かう。ほうれん草が入っているのに気づくと、箸で縁によけた。

「きよちゃん、ほうれん草も食べよう。食べてもらえなかったら、ほうれん草が泣いちゃうよ」

 子供の目線で諭してみたが、きよにはどうもこの手のメルヘンが効かない。野菜が話すような絵本も読んでいるのに、それとこれとは別らしい。途端に不機嫌になった稚い眉間に苦笑する。

「じゃあ、一緒に食べようか。俺も食べるから、いちにのさん、で」

 席に戻って促す俺に、きよは渋々といった様子で頷く。ほうれん草をつまんだ俺に倣い、ぎこちなく箸先でほうれん草を掬った。

「よし。じゃあ、いちにの、さん」

 口へ運んだ俺に、少し遅れて汁を滴らせるほうれん草を食べる。相変わらず眉間はこの上なく不機嫌そうだったが、苦手なものに挑む姿は愛おしい。

「がんばったね。一緒に食べるの、嬉しいね」

 手のひらに収まるほど小さな頭を撫で、再び焼きそばに向かう。血より濃いものを確かめながら、麺を啜った。

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