第17話

 予定どおり、きよを寝かしつけたあと沙奈子に電話をする。ただ今日は、部屋の暗がりの中だ。居間で電話をして、長尾に聞かれるのだけは避けたい。

 大人しく電話を待っていたらしい沙奈子は、笹原の一件を話すと分かりやすく絶句した。

「彼女が俺に惚れてるの、知ってた?」

「……まあね。それが原因で、縁切ったから」

 そうだったのか。てっきり、あのまま仲良く関係を続けているのかと思っていた。

「あの子、あんたの隠し撮りしてたんだよ。うちに盗聴器も仕掛けてたし、あんたが泊まった日の翌日泊まりに来てゴミを漁ってた」

 想像以上の所業に、今度は俺が絶句する。そこまでする奴なら、娘に自分の名前をつけて俺に差し出すくらいのことはするだろう。

「希世が泊まりに来て酒飲むと、いつもより回りやすくて寝落ちが早くてさ。その上、朝起きてもなんかぼーっとしてんの。最初はいよいよ酒飲みすぎだなって控えるようにしてたんだけど、ふと希世が来る時だけって気づいたんだよね。まさか薬盛ってんじゃないかって。だからトイレから戻ったあと、寝落ちを装って何するか見てたの。……まあ、とんでもなかったね、吐き気がした。寝具全部買い換えたし、縁切ったあともあんたが泊まった日の翌朝は速攻でゴミ捨てるようになった」

 思い当たる変化に、ああ、と小さく漏らす。あれは多分、四年の頃だ。沙奈子は院へ進学、俺はうちに就職するのが決まっていた。卒論も早々と提出して、暇を持て余していた。

「そういえば、途中から急に早起きになってたね。そんなことがあったんだ」

「そういうこと」

「言えば良かったのに」

 煙草を吸えない指先で、清潔なこめかみをさする。

「言ったら、希世に何してた?」

「知り合いに薬打ってもらって、風呂ソープに沈めてたかな」

 ヘロインを数回打ってソープへぶちこめば、あとは薬欲しさに必死で働くようになる。見返り不要で地獄に突き落としたいだけなら、色恋をする必要もない。

「それが分かってたから、言わなかったんだよ。あんたは人にめちゃくちゃ親切にできるけど、死ぬほど残酷にもなれるでしょ。レベル一のいいことしかできない奴は、悪いこともレベル一までしかできないんだよ。でもレベル一〇〇の奴は、いいことも悪いこともレベル一〇〇までできるようになってる。するかどうかは別としてさ。『なんでその才能をいい方に使わなかったんだ』って犯罪者、いるじゃん」

 沙奈子は寺の娘だからか、たまにこういう抽象的で哲学的な話をする。朝のベッドで寝ぼけたまま、とりとめのない話をするのが好きだった。どんな話をしたのかはもう思い出せないが、温かく穏やかで、どこか懐かしかった。

「あんたは、自分の残酷さを『誰かのため』って大義名分で正当化するでしょ。そういうとこが、すごく怖かったし嫌いだった」

 幸せな記憶に浸る俺に冷水をぶっ掛けて、沙奈子は深々と溜め息をつく。

「あたし今度結婚すんのよ、地元の坊主と。あんたに比べたら見た目は里芋みたいだし、口下手だし、死ぬほど気の利かない人だけど。でも、安心すんの。あんたが私から奪ってったもんが全部埋まる」

 冷水に氷をぶちこまれたような感覚に、動きが固まる。……ああ、そうか。当たり前のことだ。いつまでも俺を迎え入れてくれるなんて、俺の一方的な甘えでしかない。

「そうか、おめでとう。最後まで一緒にいられなくて、ごめんね」

「例の件、じいちゃんがまだ探してるけど、本人から直接あんたに連絡してもらうようにする。だからもう、二度と連絡してこないで」

 言われなくても、もう関わることはないだろう。

 俺が手を出さない女はもう一種、夫のいる女だ。「不倫に手を染めたくない」なんてのは表面的な理由で、本当は自分が一番になれないのが気に食わないだけだろう。だからといって、奪って幸せにできるような資質もない。相手が沙奈子でも、無理だ。胸に湧く焼けるような感覚に、目を閉じ長い息を吐く。

「あんたに必要なのは、女じゃなくて家族なんだよ。私はなれなかったけど、希世の子供って知っても揺れないんなら、その子は死ぬまで守ってやって。中途半端なことだけはしないで」

「そうする。ありがとう、沙奈子ちゃん」

 全部をひっくるめて礼に変えた俺に、沙奈子は少し間を置いた。

「あんたほど憎たらしい男もいないけど、不幸は願ってない。……死なないで」

 呟くような願いのあと、電話は一方的に切れる。

 改めて登録した連絡先と着信履歴を消し、素直に全てを終わらせた。

――あなたは、生きなきゃ。

 自ずと重なる願いに、目を閉じる。頬を伝うものを拭い、小さく洟を啜った。


 翌日、本部長から受けた電話はこれまでで一番面倒なものだった。

――社長の娘が所長に入るから、「よろしく」やってくれ。社長命令だ。

 社長の娘は確か三十そこそこで、本社で総務にいたはずだ。最終的に管理職へ上がるとしても、こんなドサ回りが適した人種ではない。

 どうせ、きよの話は本部長経由で届いている。金蔓を失いたくない金の亡者が、娘を投入したのだろう。俺の肩書が元に戻るのはありがたいとはいえ、更に売りにくくなったのは確かだ。ろくに営業を知らない若い女が支所のトップに就くなんて、客の印象が良いわけはない。

「いやがらせの度が過ぎるな」

「でも、美人って噂ですよ」

 苛立ちを込めて煙を吐き出した俺に、長尾が返す。

「なら、教育は長尾に任すわ。俺は売る方に集中する」

「いや、俺に売らせてくださいよ。もう一戸くらい売っとかないと、配置に戻されるんです」

 長尾の成績は、この三ヶ月で四戸。硬直した現場では悪くない数字だが、しんがりとしては奮わない。二ヶ月で九戸上げた俺と比べれば、差は明らかだ。昨日一戸上げたが、このままだと次の更新は危ういのだろう。

「長尾、フルコミか」

「はい」

 それなら、ここ三ヶ月で三百六十万か。月給百二十万と考えれば、しんがりとしては稼ぎが悪い。

「稼ぎてえなら、取引するか」

 煙草を噛んで目を細めた俺を、長尾はじっと見据えた。

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