第16話
笹原がなぜきよに自分の名前を与えて俺に押しつけたのか、分からないふりをするつもりはない。笹原は、俺に惚れていたのだろう。地元へ異動してきた俺を偶然見かけて、自分には叶えられなかった夢を娘で叶えようとした、か。
「きよちゃーん、おとうさんよー」
呼ぶ声に気づいて振り向くのは、きよだけではない。俺はいつも、あっという間に子供達に囲まれる。だれのおとうさん、しごとは、もうおむかえきたの、の質問に交じり、懸命に自分をアピールする子も多い。最近は、俺が来るなりくっついて離れない女の子もいる。幼いなりに、様々な事情を抱えているのだろう。
脚にしがみついた子の頭を撫でると、ぱっと離れて両手を上げて抱っこをせがむ。少し体を屈めて抱き上げようとした時、猛然と向こうから走って来たきよが思いきりその子を突き飛ばした。
「きよ!」
咄嗟に強く呼んだ声に、きよはびくりとした。すぐに手を伸ばして支えたから被害は防げたが、驚いたのだろう。顔を引きつらせた子は泣き出し、釣られるようにきよも泣き出してしまった。
「すみません。この子を抱っこしようとしたら、きよが突き飛ばしてしまって。支えたので大丈夫でしたけど、びっくりしたみたいです」
「そうですか。ほら、おいで」
保育士は驚くでもなくもう一人の子供を呼んで抱き上げ、宥める。そう珍しいことではないのだろう。
「きよちゃん、おとうさんをとられるみたいで怖かったんでしょうね」
ああ、と気づいてきよを呼ぶと、いろいろなもので顔をぐしゃぐしゃにしながらやって来る。泣き顔を見るのは二度目だ。ティッシュで顔を拭い、赤い目を潤ませるきよを抱き上げると、決して離さないようにしがみついた。
「高瀬さん、これ」
「すみません、ありがとうございます」
担任に手渡された連絡帳には、『たかせ きよ』と記されている。通園バッグにも、あらゆる荷物にも。笹原が得られなかった名字と、愛情だ。そんなもののために、この子は本当の名を捨てられた。狂っている。
「帰ろうか」
洟を啜りながら頷くきよを抱き直し、明るく見送る子供達に手を振って部屋をあとにする。
「今日は、午後からお仕事休みだから。お昼ごはん食べて、少しお出掛けしよう」
うちはフレックスではないものの、俺はかなりの融通が許されている。数字さえ出せば、それが理由になるのだ。仕事にはなんの執着もないが、自分の才には感謝している。
小さな玄関で下ろすと、きよは自分の下駄箱から自分の靴を選び、たたきに置いて一人で履く。保育園へ通い始めてまだ一週間も経たないが、一人でできることがかなり増えた。
「今日も一人で履けたね、がんばった」
目に見える成長は嬉しいし、愛おしい。差し出された手を握って、外へ向かった。
ファミレスで昼食を取ったあと、県内で一番の古刹へと車を走らせる。事前情報は何もないが、とりあえず古いところならどうにかしてくれるのではないだろうか。安易な思考だが、ダメならほかを当たればいい。どうにかできる寺が見つかるまで、と思った時、背後で呻くような声がした。
慌ててバックミラーを確認すると、きよが赤い顔で手足をばたつかせていた。すぐに路肩へ車を停めて運転席を出る。
「きよ!」
回り込んで後部座席のドアを開け、苦しげなきよに手を伸ばした。
「余計なことをすれば、死ぬぞ」
薄気味悪い声が、苦しげなきよの口から漏れる。低く嗄れた、粘りつくような男の声だ。
「父を殺した悔いを忘れたか」
思わず凝視したきよが一転、今度は目を大きく見開き金色に光らせて笑う。くく、と下卑た音が響いた。
「……誰だ」
「名乗る必要はなかろうよ」
「女達を殺したのはお前か」
「さあ、どうだろうな」
蔑むような視線を投げて、口の端を引き上げる。きよのものとは思えない、邪悪な笑みだった。
「きよをどうするつもりだ」
「如何様にも」
「ふざけるな!」
怒鳴りつけた瞬間、元に戻ったらしいきよが顔を引きつらせて怯える。ああ、しまった。噴き出す汗を感じながら、きよのシートベルトを外して抱き上げる。
「ごめん、怖かったね。今のは、きよちゃんに言ったんじゃない。おいで」
抱き締めたきよの体が、汗で湿っていた。さっき窒息させられそうになっていたせいだろう。俺が、守らなければ。
「少し寒くなってきたから、服を買って帰ろう。あとは、折り紙とぬりえかな。寝る時読む本も、もうちょっと欲しいね」
頷くきよを強く抱き直し、長い息を履く。今更「父親じゃない」なんて言われて、手放せるわけがない。
「ずっと、一緒にいよう。絶対に離さない」
喪失に怯えるのはいつ以来か、もう二度と抱かないと誓った感情だった。
――皐介、大丈夫よ。あなたは。
忘れられるわけのない声と表情が、脳裏で鮮やかに蘇る。
あの日、緩んだ腕に慌てて抱き止めた体がするりと滑った。赤く染まった手が、がくがくと震えた。
――あなたは、生きなきゃ。
少し寂しそうに眉尻を下げて笑んだあと、満足そうに崩れていった。
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