第14話
「……いえ、ダメです。留守電に繋がりました」
汗の伝う額を拭い、髪を掻き上げる。たとえきよが絡んでいたとして、久我に話すわけにはいかない。超常的な要素が絡んでいるのならそれはそれで、今後目をつけられてしまうのは分かっている。
一息ついて気持ちを整え、きよの前にしゃがむ。今は俺と変わりのない瞳の色を確かめた。考えなければならないことはあるが混乱して、まだまとまらない。
「ごめんね。中で刑事さんとお話をしてくるから、ここで待ってて。すぐに戻ってくるから、じっとしててね」
平静を装って笑みを作り、言い聞かせる。小さく頷いた頭を撫でて、腰を上げた。
「お待たせしました、行きましょう」
踵を返した久我に続き、閉ざされていた中へ入る。警察官は久我に何かを耳打ちしたあと、先を許した。寝室かと思ったが、久我が開けたのはリビングのドアだ。女将はリビングのソファから滑り落ちるような格好で、息絶えていた。首にはつややかな黒髪が巻きついたまま、見開かれた目は俺を見据えているようでもある。苦しげな表情だった。
「本人です、間違いありません」
認めて、手を合わせる。今の俺にはこんなことしかもう、できることがない。
「冷静ですね。この手の仏さんを見たら大抵、動揺するもんですが」
久我の冷静な指摘に気づいて、手を下ろす。芝居を忘れるほどには動揺していた、と言うのはヤブヘビだろう。
「行政に疎まれる場所で育ちましたので、それなりに」
女達は他人の健康保険証を使い回していたが、その他人が「今どこにいるのか」は暗黙の了解で秘されていた。ただ外国籍の女は使えなかったから、彼女は痛みにのたうちながら壮絶な死を遂げた。ブルーシートに苦痛から解き放たれた彼女の死体を載せたあと、親父は重ねたその手に小さな仏像を抱かせてやった。皆で手を合わせてブルーシートを閉じ、近くの丘に運んだ。親父が一昼夜掛けて掘った深い穴に、彼女は沈んでいった。
――皐介、私が死んだらおんなじように埋めてよ。二度とあんなとこには戻りたくないの。ここがいい、ここで死にたい。
隣にいた赤い目が、震える声で希った。腕には無数の注射痕があったが、皆が見ないふりをしていた。それから二ヶ月も経たないうちに、その女は質の悪い薬を打ち泡を吹いて死んだ。その時も同じように、皆で最期の願いを叶えた。
凄まじい死に様にも、死体にも慣れている。俺の子供時代は常に、死と共にあった。
「そこから、よう這い上がりましたね」
「親が死んで、途中から施設に入ったんですよ。そこで後見人になってくれた人が養子縁組して、金で磨いてくれたので」
慈善事業で暇を潰す有閑マダムが施し先で見つけた美少年を愛玩目的で引き取るなんて、珍しい話じゃないだろう。俺の「初めて」は、その女だ。抱いた時、親父がなぜ軍手をはめて仕事をしていたのかをようやく知った。女達に愛され続けた理由も。
「経緯の方を、聞かせてもらえますかね」
切り出した久我に、携帯のメッセージアプリを開いて差し出す。できる限り、協力的な姿勢は見せておくべきだろう。
「三時半、ですか。私達が帰ってすぐってとこですね」
「はい。怖がってるようでしたが、今すぐという感じではなかったので大丈夫だろうと」
怖いのも、危険なのも夜だと思っていた。でも、そうではなかったのだろう。真実が明かされていく速度が、死の速度に追いつかない。
「さきほど電話をかけていた相手は?」
「こちらへ来てから付き合った女性が三人いて、最後の人です。久我さんが来られる前に電話して話した感じでは、何も起きてなかったようなんですが」
まだ湿っていた顔をさすり上げ、長い息を吐く。あれはきよの声だったが、死を予言する時のきよとは口調が違った。あの言葉と視線に絡む湿度は、女のものだ。きよの母親だとしたら、かつて抱いた女だろう。でもこんなことをするような女には、正直心当たりがない。
「その、三人目の女性が『本命』ですか」
久し振りに聞く青臭い単語に、携帯を受け取りながら久我を見る。
「久我さんは、本命を置いてほかで遊ぶタイプですか」
既婚者なら、そういうことになるのだろう。久我は苦笑で応え、外へ向かって歩き出す。俺も、女将を一瞥してからあとに続いた。
「俺は全員、同じように好きですよ。自分がハマりすぎないように関係の調整をすることはあっても、相手を順位づけすることはありません」
「これまで、女同士がケンカしたことは?」
「見えるところではなかったですね。みな包容力があって、情の深い相手ばかりでしたから」
女将は俺とママが関係を持っているのを知っていたし、ママもきっと知っていただろう。店長も、相手の特定はできなくても「自分一人ではない」のは分かっていたはずだ。
「ママは四十、女将は四十四、電話した相手は三十九、全員年上です」
確かめるようにメモをめくる久我に答えを与える。これまで関係を持った女で一番歳が近かったのは沙奈子だ。毎度年齢を尋ねて始めるわけではないのに、全員年上だった。
「嫉妬や復讐は動機としては陳腐で、あなたみたいな男を巡ってならこっちも疑問は抱きませんわ。証拠さえ残してくれてれば、『ようある事件』で捜査も簡単だったんですけどね」
久我は手早く書きつけてメモをポケットに突っ込み、わざとらしく肩で息をする。ねじ込むように走れそうな革靴を履き、ドアを開けた。以前はスーツにスニーカーは刑事と教師くらいなものだったが、介護業界が発展した今はケアマネあたりにも割と見られる。逆に刑事は、一見しては分からないような革靴を履くようになった。まあこんな田舎で鋭い眼光をして体にフィットするスーツを着ているのは刑事くらいだから、すぐに分かる。田舎のヤクザは、「見られる」ことには敏感でも「見せる」ことには割と無頓着だ。
「前回同様今回も密室で証拠なしってことなら、『小さい幽霊』の仕業にするしかありませんね。一件目の被害者の娘の話をちゃんと読み返したら『髪の長い女の子で目が光ってた』と。ちょうど、この子くらいじゃないんですかね」
通路で大人しく待っていたきよの目の前にしゃがみ込もうとした久我を、遮るように前に立つ。
「娘は私にしか慣れてません。怖がりますから、やめてください」
久我はしゃがみ込んだ位置から、牽制した俺を見上げた。薄ら笑いは浮かべているが、鋭く射抜くような刑事の視線だ。
「私らも、常識では説明のできんような事件に遭遇することは割とあるんですよ。身内ではちゃんと隠語もあります。まあ私は、ここまでのは初めてですけどね」
鳴り始めた携帯に気づいて腰を上げ、改めて俺を見る。
「今日のところは、ひとまずお帰りください。またなんかあったら、ご連絡を」
携帯に応えながら踵を返し、部屋の中へ入って行く。
「帰ろう、きよちゃん」
掛けた声に、きよは両手を上げて抱っこをせがむ。一瞬ためらったあと、耳に残る声を奥へ追いやっていつものように抱き上げる。
俺を拒むように閉じられたドアの前で小さく頭を下げ、外へ向かった。
「ごめんね。お腹空いてるとこ悪いけど、ちょっと行きたいところがあるんだ。無事を確認したら、どこかでご飯食べて帰ろう」
チャイルドシートにきよを乗せて、シートベルトをする。傍らに落ちていたぬいぐるみを与え、ドアを閉めた。
店長のアパートはここから車で五分ほど、駅裏の住宅地にある。何もなければ、心配しすぎたと笑えばいい。そうであることを、祈っている。
パーキングを出て細道を左に、まずは大通りへ出る。女将のアパートは繁華街にほど近く、店から徒歩で通える場所だ。抱く前もあとも、アパートの前まで歩いて送った。
――「息苦しかった」って言われてようやく、自分が罪滅ぼしみたいに家事をしとることに気づいたんよ。必死でおいしいごはんを作っとったのも、必死で部屋をきれいにしとったのも、「子供ができんのだからせめてこれくらいは」って。伝わらんわけが、なかったんよねえ。
女将は酔うと時々、元夫の話をした。詫びと悔いと情のこもった記憶を、いくつ受け止めただろうか。宝石を取り出すように語られる話はどれも、程よく美しく磨かれて切なく響いた。柔和な声が。
「また、ちがうおんなのことかんがえてる」
突然差し込まれた声は、耳元で聞こえた。少し早いブレーキを踏んで確かめたバックミラーでは、形容し難い邪悪な薄笑いを浮かべたきよが俺の肩に顎を載せていた。
「きよ!」
慌てて振り向いた先で、チャイルドシートのきよがびくりとして目を開く。……眠っていたのか。
「ごめんね、起こしちゃった。寝てていいよ」
起こしたくせにろくでもないことを言う俺に、きよは大人しく目を閉じる。向き直り、動揺に揺れる赤信号を眺めて溜め息をつく。
保育園では、同じように輪に馴染むのが得意ではない子と黙々と折り紙をしているらしい。予言をすれば保育士は報告するだろうし、おかしなことが起きれば保育も拒否されるはずだ。マダムや長尾が不審を口にしたこともない。俺といない時は「普通の子供」なのだろう。
青へと変わった信号に、車を出す。曲がるべき角に『この先通行止め』の看板を確かめて緩く左へ曲がる。向こうが赤いライトで埋まっていて、いやな予感がした。
交通整理で迂回路を示す警察官を確かめ、奥の状況を窺う。灯りを散らすガソリンスタンドの看板が、根本から折れていた。
事故処理車に阻まれて被害の様子は見えないが、どうしても気になる。指示に従い迂回路へと右折したあと、路肩で車を停める。眠るきよを確かめて車を降り、警察官のところへ走った。
「申し訳ありません、ちょっとお伺いしたいんですが」
迂回指示を続ける警察官に話し掛けると、はい、と警察官は短く答える。
「この道路を利用して仕事から帰る彼女と、急に連絡が取れなくなったんです。車の被害はあったんでしょうか」
続けて車の特徴を伝えた俺を警察官は見つめ、やがて後ろへ向かい誰かを呼んだ。
当たり、か。
現れた警察官は呼び出した同僚の耳打ちを受けたあと、少しお話伺ってもいいですかね、と神妙な声を出した。
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