第13話
予定どおり七時半に辿り着いた女将の部屋は、何度インターフォンを鳴らしても反応がなかった。携帯を鳴らしてもメッセージを送っても無反応で、ドアも開かない。
「きよちゃん、ちょっと待っててね」
傍に佇むきよは、泊まりの準備を詰め込んだリュック姿だ。お泊まりだとしか言わずに連れて来たから、女将の家だとは話していない。
アドレス帳の中から追加したばかりの刑事、
「すみません、今日モデルルームでお会いした高瀬です。至急、これからお伝えする住所に来ていただけませんか。数日前から部屋に誰かがいる感じがすると話す女性に呼ばれて家まで来たんですが、インターフォンの反応がないしドアも開かないんです。電話やメールも反応ありません。警察にも一度来て見てもらったと話してました」
「分かりました、パトカー連れて今すぐ行きます。どちらですか」
動き出したのが分かる気配に安堵し、住所を伝えて通話を終える。続けてアパートの管理会社へ連絡し、事情を話して立ち会いを願った。
問題は、次だ。
ママの次は女将だとしたら、確かめるべき相手は決まっている。この時間なら、店を閉めている頃だろう。履歴から店長の番号を選び、携帯を耳に当てる。呼び出し音が途切れて、思わず安堵した。
「ごめんね、皐介だけど。まだ仕事中?」
「ううん、今閉めて帰るとこ。どうしたん」
いつもどおりの声に、思わず詰まる。ママが死んで女将の現状が分からず、「次は」と不安になって連絡したとはとても言えない。
「いや、何かあったってわけじゃないんだけど。声が聞きたくて」
伝えればいたずらに不安を煽る内容を飲み込んだ。
「仕事で失敗でもしたん? 声が弱っとる」
「そうかな、ちょっといろいろあって。そっちは大丈夫? 困ったことない?」
「いつもどおりだよ、客も少なかったし」
諦めたように話す店長に苦笑する。独立したのは三年ほど前、腕は良いが経営には苦戦している。田舎でも美容室は供給過多だ。だからといって、俺がパトロンとして金を出すのは違う。まあひとまず、得体の知れない恐怖はまだ降り掛かっていないらしい。
「泊まり来る?」
「いや、今日はやめとくよ。大人しく寝る、娘と」
付け加えた「娘」に店長は軽く笑う。車へ向かっているところなのか、電話越しに喧騒が聞こえた。無事に帰ることを願っているし、この先の平穏も祈っている。でも今はそれを口にできない。もどかしさに視線を落とした。
「何かあったら、すぐ行くから呼んで。子連れだけど」
何も起きていない状況で言えるのは、この程度だ。
「あんたは夫としては最悪だけど、父親としてはええんじゃない? あんたの娘が羨ましくてたまらんわ。じゃあね」
答えを待たず切れた通話に、溜め息をついた。
――あたしの父親、ほんとろくでなしでね。恫喝と暴力で育てられたけえ、あたしのコミュニケーション手段もそういうのしかなかったんよ。警察に捕まって丁寧な矯正教育受けた時、目からぼろぼろウロコが落ちた。殺したことは後悔しとらんけど、誰かがもっと早くこれを教えてくれてたらって、泣いたわ。
子供の頃にグレていた店長は、壮絶なる親子げんかの最中に父親を殺した。虐待が証明され正当防衛は認められたが、店長自身もそれなりの罪を犯していたため少年院に送られたらしい。
院を出たあと離れた土地で美容師免許を取得して数年働き、夫となる男性に見初められ結婚。ただ、店長は自分の罪を言えないまま嫁いでしまった。結果として義母に暴かれ、子供の親権どころか会うことすら許されない形での離婚となった。それを機に独立してここへ帰還、周りは大体「知っている」らしい。
――変な話だけど、楽なんよねえ。いい人間のふりをしながらびくびく暮らすんは、しんどいけえ。
笑いながら凭れる体を抱き締めると、いつも背中に少しの段差が触れた。父親が、店長を殺そうと振り下ろした包丁の痕だった。喉まで出掛けた「一緒にいよう」を、いつものように飲み込んだ。
鳴り始めた携帯に意識を戻し、慌てて表示を確かめる。女将なら最高だったが、久我だった。到着を告げる声に変わりのない現状を報告し、通話を終える。冷えた臙脂色のドアに触れ、脳裏に浮かぶ観音に祈った。
警察官を引き連れた久我が現れてしばらく、管理会社の社員も現れる。全員揃ったところで、いよいよ部屋へ踏み込むことになった。といっても、俺は背後で待機だ。女将を呼びながら入って行く久我と警察官に、きよを抱き締めて結果を待つ。
――着けんでええよ、私、子供できんから。
男の礼儀として避妊をしようとした俺を、女将は布団に埋もれながら呼んだ。
――ほんとよ。それで旦那が若い女と浮気して、子供ができたけえ別れたんよ。
士業の夫は慰謝料として少なくない金を積み、新たな人生がほしいと願ったらしい。それを受け入れた女将はがむしゃらに働いて金を貯め、この小料理屋を開き新しい人生を手に入れた。
――慰謝料は全部、親にあげたんよ。店を開けるくらいもろうたけど、そんな金に頼りたあないでしょ。私の店は、私だけのもんよ。
引き寄せられて溺れた肉はまだ瑞々しさが残っていて、胸の形も美しかった。でもそれは称賛すべきものでも、残念がるべきものでもないだろう。きれいだと言えば、それで済む話だ。
――散々泣かされて、もう男はこりごりて思うとったのに。ほんに、私はバカだわ。
泣きそうな顔で笑いながら、慈しむように優しく俺の顔を撫でた。一回で引いたのは、正解だっただろう。三人の中では一番、かつての女達を思い出させる相手だった。
「高瀬さん」
響いた声に、はっとしてきよの肩口に埋めていた顔を上げる。すぐに視線の合った表情は神妙で、何も言われなくても起きていたことは知れた。
「亡くなっとるようです。件のママと、同じ手口で。仏さんが本人かどうか、確かめてもらえませんか」
「分かりました。ただ一件、電話してからでいいですか。無事を確かめたい人がいて」
胸を占めるいやな予感に、きよを下ろして携帯を取り出す。どうぞ、と促して部屋へ戻る久我を見送り、履歴から店長を選ぶ。鳴り始めた呼び出し音に、胸が早鐘を打ち始めて汗が滲む。早く、早く。
「
途切れた音に呼び掛ける向こうで、砂嵐のような音が断続的に響く。
「真希!」
強く呼ぶと音がふつりと途切れた。かすかに女の声が聞こえて、もう一度小さく名前を呼ぶ。
「……わたしが、いるのに」
冷ややかでか細い声に、背筋に冷たいものが走る。店長の声ではないが、聞き覚えがないわけではない。こめかみに滲む汗を感じながら、ゆっくりと見下ろす。
「どうして、ほかのおんながひつようなの」
射るように俺を見据えるきよの目が、金色に光った。
「高瀬さん、どうですか」
背後から聞こえた久我の声に、我に返る。電話の向こうでは、留守番電話の機械的な声が流れていた。
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