第10話
ママの口利きのおかげで、無事にきよは無認可保育園へ入れた。といってもまだ午前中のみの慣らし保育で、午後からはモデルルームのバックヤードで過ごしている。
――大丈夫ですよ。少しずつ馴染んでいきますから。
まだ輪に入れないらしいきよを、年配の園長は「よくあること」だと宥めるように笑った。
――親の心配は子供に伝わりますから。お父さんも、ゆったり構えてください。
でも、苗字も名前も消える初めての感覚には、どんな表情をすればいいのか分からなかった。
「あれ、点いてない」
いつものように辿り着いた雑居ビルの照明を見上げて、足を止める。ずらりと縦に並ぶ内照式の看板が、一つだけ点いていない。ママの店だ。
「今日、貸し切りかな」
それで消えているのならいいが、ほかの理由なら心配ではある。稼ぎ時の金曜に理由もなく休むわけがない。きよを連れて雑居ビルの通路に入り、ドア越しに漏れ聞こえるカラオケの声を聞きながら角を曲がった。
やっぱり点いていないし、貸し切りの札も掛かっていない。試しにドアノブを引いてみたら、鍵の手応えがあった。休みか。
「ごめんね。ちょっと電話をかけてみるよ」
通路の端へ移動し、ママに電話をかける。数度鳴らして途切れたあとの声は、明らかに具合が悪そうだった。
「店が閉まってるから具合が悪いんじゃないかと思ったんだけど、ほんとに悪そうだね。手は足りてる?」
「ありがと、大丈夫。さっき、若い子が夕飯買ってきてくれたし。週明けくらいから、体調が悪くて。今日はもう、無理そうだから休みにしたの」
責任感の強さで、ぎりぎりまで無理をしていたのだろう。小さい店だが気遣いがきめ細やかで、営業としても尊敬するところが多い。
「病院行った?」
「うん、今日。疲れだって。点滴打って、薬もらってきた」
予想どおりの理由に、安堵とも嘆息ともつかない息を吐く。隣で大人しく待つきよを一瞥して、暗い看板に視線を戻した。一番の心配は、子供のことだろう。
「そっか。お嬢さんは? ゆっくり休めるように、具合良くなるまで預かるよ」
「私とよく似てるから、ダメよ。あんたみたいなのが、初恋の人になったら困る」
少し間を置いて返された母親の見立てに、はは、と笑う。
「つらそうだからもう切るけど、なんかあったら、別になくても呼んで。夜中でも。誰でもいいなら、俺が行くよ」
弱っている時は心細くて、誰かの気配や体温がほしくなる。子供さえいれば良くても、甘えられる相手ではない。
「……聞き飽きてんだろうけど、好きよ」
「ありがとう、嬉しいよ。元気になったら、また聞かせて」
「バカね、弱ってるから言えんのよ」
少しだけいつもの調子を取り戻して、通話は終わった。
「ママ、具合が悪いんだって。今日はコンビニで何か買って帰ろう」
差し出した手には応えず、きよは両手を上げて抱っこをせがむポーズをする。
「しょうがないなあ、マダムには内緒だよ」
指先を唇に押し当てて内緒の仕草をしたあと、軽い体を抱き上げた。真新しい通園バッグが、きよの背中で揺れる。朝は渋々離れるが、迎えに行くとすぐに抱きつき離れようとしない。幼い心に掛かる新しい環境のストレスは、相当なものだろう。
「何食べようか。ハンバーグがあるかなあ」
後れ毛の膨らむ三つ編みの後頭部を撫で、コンビニへ向かった。
信じられない訃報が届いたのは、203号室と506号室の仮押さえを決めた土曜の夜だった。
――皐介さん、
電話の向こうで声を潜める女将に、大人しく折り紙で遊ぶきよを思わず確かめた。詳細を知りたかったが、不要な諍いを起こさないよう従業員達の連絡先は聞いてない。ひとまず女将に葬儀の日取りを含めた情報収集を頼んで、通話を終えた。
「浮かない顔ですね」
聞こえた声に、傾けていたロックグラスから視線を上げる。
「俺も一杯、もらっていいですか。眠れなくて」
「どうぞ」
部屋着姿の海藤は、食器棚からグラスを取り出して冷凍庫へ向かった。
きよを寝かしつけたあとは照明を落とすから、最近はほぼ居間にいる。寝る前まで上司と顔を突き合わせたくない長尾はほとんど出て来ないが、海藤はふらりと現れて、毎度俺の酒を飲んでいく。
営業スタイルは強引で、客から引き出したネックを潰しながら買うまで追い詰めていくタイプだ。もちろんそれが合う客もいるが、「気にされてた点は全部解決しましたよ、これでもう買えない理由はありませんよね?」と迫られて息苦しさを感じない客の方が遥かに少ない。うちに引っ提げてきた実績は嘘ではないだろうが、海藤の売り方は客足そのものを引かせるやり口だ。それに、「もっと貪欲に上を目指したい」と述べた転職理由は嘘だった。
まあバックヤードに娘を置いて働いている俺が言えることではないし、外回りでの休憩は営業界の「暗黙の了解」みたいなものだから文句はない。ただ、海藤の休憩はパチンコだ。せこい理由は、ケチだからではない。
――だからお前んとこにやったんだよ。穴埋められんのはお前しかいねえからな。
「海藤は飛ぶ」と予言した俺を、本部長は鼻で笑った。
人海戦術を良しとする採用部は能が足りてないから、応募してきた連中の精査なんてしない。俺が営業の人脈を利用して確かめた結果、まあ単に海藤がいた競合の営業に尋ねただけだが、客の手付金に手を出してのクビだった。
営業個人の所業であっても、客の金に手をつけたと知られたら社の信用は大きく揺らぐ。それを嫌って警察に突き出さず内々に事を収めるせいで、こういった輩は懲りずに同じことを繰り返すのだ。
「俺なら、一日に二戸も上げたら一番いい酒開けますけど」
「配置営業の立場なら俺もそうしますけど、しんがりですからね。今日も本部長に『ちっと遅えんじゃねえか』と釘を刺されました」
時間が掛かるほど物件が売れなくなるのはもちろんだが、人件費とモデルルームの土地や宿舎の賃料も重ねられていく。その辺りに、うちの経理部長は死ぬほど煩い。
「所長、年俸契約って聞きましたよ」
長尾か。鼻で笑い、新しい煙草に火を点けて一吸いする。
――あんたは、煙草に火を点けてる時の顔が一番いいの。
ママはそう言って、俺の前では仕事を一つ放棄した。あの電話をかけた時、無理にでも押し掛けていれば良かったのか。
「そうです。基本三千万で、あとは十戸売るごとに売上の一パーがインセンティブです。俺はフルコミでも良かったんですけど、会社がやめてくれと」
フルコミッションは完全歩合給、うちの会社ではしんがりだけが選べる稼ぎ方だ。売上の三パーセントが収入になるから、三千万の物件一戸で九十万が手に入る。そのやり方でいくと俺は億近くもらえるはずだが、会社に泣きつかれて年俸制だ。
「すごいですね。本部長が、うちの物件の半分を売ってるバケモンだと言ってました。あ、もちろん褒め言葉ですよ。どうやったらそんな稼げるんですか」
斜向かいへ腰を下ろした海藤のグラスに、薄まったバーボンを注ぐ。勝手に飲んでは水で増しているのに気づかないほど、俺の舌はバカではない。
「俺のこれは天賦の才なんでね。でも向いているものを見極めさえすれば、普通に稼げますよ。稼げないのは、向いていないことをしてるからです。だから自分に何が向いているのかを真剣に考えて、試して、見つけ出せばいい。でも俺にその質問を投げる奴はこんな地味な答えじゃなく、簡単に稼げる
煙を吐きながら目を細めた俺に、海藤は簡単に視線を逸らす。こいつも結局、その程度の小物だ。
隣の椅子に置いていた小切手をつまみ、海藤へ差し出す。
「一千万やるから飛べ。俺はあと四億売らなきゃ動けねえんだよ」
額面はきっちり『金一〇、〇〇〇、〇〇〇円也』、客の金に手をつけるような外道なら喉から手が出るほど欲しいはずだ。これから契約が続く大事な局面に、こいつを置いてはおけない。
突然差し出された小切手に困惑していた海藤は、やがて得も言われぬ下卑た笑みを浮かべて引き抜く。会釈をして去って行く目はギラついて、この上なく腥かった。
「ごめんね、まずい酒にしちゃって」
手酌で傾けたバーボンは、誕生日にママからもらったものだ。店で飲んでいるのと同じ酒を贈った理由を聞くと、軽く笑った。
――私んとこに来なくなっても、見る度に思い出させてやるためよ。
軽く掲げて、一気に呷る。喉を焼き腹に落ちる熱に、荒い息を吐いた。
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