第9話

 不動産業界の定休日に水曜日が多いのは、契約が「水に流れる」のを嫌ってだ。縁起やジンクスを担ぐ営業はそれなりにいて、俺は契約の日にしか吸わない煙草の銘柄がある。初めて契約を取った時に吸っていたやつだ。以来十三年、一度も欠かしたことがない。

「どれくらい切る?」

「胸と鎖骨の間くらいかなあ。三つ編みが好きみたいだから、ある程度の長さはほしい。あと、前髪も作ってやって」

 了解、と答えて店長はきよの髪を目の粗い櫛で梳く。鏡越しに俺を見るきよの視線に気づき、にこりと笑んだ。

「で、認知すんの?」

「うん。不出来な父親で申し訳ないけど、なんとかがんばろうかと」

「DNA鑑定は」

「それはいいかなあ。『あなたの子です』って言うんだから俺の子なんだろうし、もし違ってても赤の他人に託さないといけないくらい追い詰められてたんだろうし」

 櫛が前髪を梳くと、きよの顔が覆い尽くされる。前回はさみを入れたのはいつなのだろう。このあと歯医者へ治療に行くが、虫歯二本で済んだのは奇跡的だ。ママの言ったとおり、きよは歯ブラシの使い方もまるで分かっていなかった。

「ほんと、そういうとこがね」

「クズ?」

「無邪気に言っとるんならクズだけど、全部分かって言っとるんでしょ。ずるいんよ、手札の切り方が。邪魔だけえ、もうあっち行っとって」

 ざっくばらんな口を利いて、いやそうに手で追い払う。前下がりのショートボブはインナーカラーのピンクがちらつき、右耳にはピアスも三つ、メイクも派手めだ。でも爪は短く切り揃えられてネイルもない。美容師らしい手だった。

「ごめんね。じゃあ、よろしくお願いします」

 苦笑してきよに手を振り、待合室へ戻る。

 店長は三歳年上でバツイチ、一人息子は元夫に奪われて何をしているかも分からないらしい。

 長尾と飲みに行ったバーで隣の席に座り、一旦別れたあと合流してホテルへ行った。それから、十回くらいか。三人の中では一番深い付き合いだ。湿度が控えめなところも口の利き方も好みだったが、俺の髪を切る時の手が一番良かった。

 新しい美容室を、探さなくては。

 あの二人のところにはこれからも行けるが、ここはもう無理だ。

 ソファに凭れ、相変わらず俺以外には微動だにしないきよに話し掛ける姿を眺める。ごめんな、と呟いた詫びは聞こえないはずの距離なのに、店長は手を動かしながらこちらを一瞥した。


 総毛立った猫のような抵抗を見せたきよを宥め続けて一回目の治療を終え、歯医者から帰宅した頃には昼を過ぎていた。

「おつかれさまです。着いてますよ、海藤かいどうさん」

 俺達の帰宅に気づいて玄関に顔を出した長尾が、新人の到着を報告する。

「おかえり、きよちゃん」

 車から降りても一ミリも歩こうとしなかったきよは抱っこされてそれきり、長尾の挨拶にも俺の首にしがみついたまま振り向く気配すらない。

「悪いな、歯医者の治療で不機嫌になってて」

「まあ、初めてならそうなりますよね。あ、海藤さんには『事情があって面倒みてる』と言ってありますんで」

 長尾には既に伝えてあるが、海藤にはそれでいいだろう。好きにすればいいとはいえ、積極的に種を蒔く必要はない。

「分かった、ありがとう。これ今晩飲む酒買ってきたから、冷やしといて。あと、食べるもんは海藤さんの好きなもの適当に注文して。金は出すから」

「分かりました、ありがとうございます」

 長尾に日本酒の入った袋を差し出して、居間へ向かう。

「で、どう?」

「だいぶギラついてますねえ」

 端的に尋ねた問いへの答えに笑い、ドアを開けた。海藤はソファに腰を下ろし新聞を読んでいたが、俺の姿を見るとすぐに腰を上げる。

「おつかれさまです。挨拶が遅くなりました、高瀬です」

「はじめまして、おつかれさまです。海藤です」

 挨拶の声を聞いた瞬間、巻きついていた腕がふっと力を抜く。振り向くきよの瞳が一瞬、輝いたように見えた。まずい。

「こっ、の子は、きよです。歯医者行って不機嫌になってるので、先に部屋で落ち着かせて来ます」

 慌てて胸に抱き直し、逃げるように自室へ急ぐ。ここで予言されるのはまずい。部屋に入って障子を閉め、一息つく。

 猫のように両脇を掴んで掲げたきよは、相変わらず不機嫌そうな顔をしていた。汗で額に張りつく前髪が、歯医者での一悶着を思い出させる。隙あらば椅子から脱げ出そうとするから、本当に大変だった。来週も、きっと大変だろう。

「ごめんね。大事なことなのに、言うの忘れてた。誰が死ぬか分かっても、これからは内緒にしよう。俺にだけ教えて」

 言いながら、なんともいえない違和感に気づく。所長と市役所職員の並びだけなら別に、それほどおかしくはない確率だ。でも所長と海藤の並びは、偶然にしては確率が高すぎる。まさか、死が分かるのではなく。

 背筋を這い上がる冷たいものに、じっときよを見つめる。

――他意はないので情報としてお聞きいただきたいのですが、これとよく似た舌を資料で見たことがあります。ただ、人間ではなくて「猿」なんです。

 あの夜肩に載っていた何か、金色の目、二枚目の舌。

 一旦きよを畳に下ろして、いつものように目の前にしゃがみ込む。

「よし、じゃあ約束しよう。これからは、誰が死ぬって分かっても内緒」

 小指を差し出した俺にも微動だにしないきよに、遅れて気づく。

「昨日読んだ絵本にあったの、覚えてる? 指切りげんまん」

 きよは小さく頷いて、ぎこちなく手をもたげる。俺の半分の大きさもない指に絡めて、懐かしい歌を口にした。

「お昼ごはん作ってくるから、遊んでて」

 頭を撫でて促すと、きよは自分のスペースへと走って行く。八畳間の一角にピンクのマットを敷いて、とりあえずこの上が遊ぶ場所だと教えはした。が、守られてはいない。まあ萎縮していたのが少しずつ子供らしさを取り戻している証拠だろう。部屋中におもちゃが散らばったところで、死にはしない。

 それはともかく、だ。

――……皐介、逃げ、ろ。

 あの時振り向いた男の目も一瞬、金色にギラついて見えた気がした。あれは、気のせいではなかったのかもしれない。あの頃、親父は普通とは違う仏像……か「何か」を彫っていた。でも親父の死後、気づいたら作業場から消えていた。

 きよが俺のところに来たのは、本当に偶然なのか。

 まとまりのないことを考えながら、座敷をあとにした。


 一足先に炒飯を食べ終え、携帯を手に窓際へ向かう。修正しても気づくと握りスプーンで食べているきよを眺めながら、記憶を頼りに番号を叩いた。聞こえた呼び出し音に安堵して、途切れるのを待つ。やがて、はい、と懐かしい声がした。

「もしもし、皐介だけど。ちょっと教えてほしいことがあるんだ。今、時間大丈夫?」

「『大丈夫?』じゃねえよ。何当たり前みたいに電話かけてんだよ、死ね」

「相変わらず辛辣だなあ。ごめんね、まだ生きてる。あと教えてほしいことの前に一つ確認しときたいんだけど、五年くらい前に黙って俺の子産んでないよね?」

「バカなの?」

「良かった。沙奈子さなこちゃん愛情深いから、うっかり産んでないか心配で」

 沙奈子は学生時代からつかず離れず、十年近く関係のあった相手だ。一般教養の講義で隣になって、俺が話し掛けたのが最初だった。同級生だが沙奈子は浪人したから一つ上で、口の悪さと気の強さと情に脆いところが心地よくて居座りすぎた。

――ねえ、あたし三十になるんだけど。

 その台詞に我に返ったのが、七年前だった。

「何、まさか我が子が出てきたってわけ?」

「うん。職場に『あなたの子です』って手紙持った五歳の女の子が来たんだよ。まあ俺の子なんだろうけど、ちょっと気になることがあってさ」

 俺の視線に、きよは気づいてこちらを向く。正しい持ち方のジェスチャーをして見せると、ぎこちなくスプーンを持ち直した。かわいい。

「沙奈子ちゃん、猿を信仰する宗教や慣習のある土地、知らないかな」

「猿?」

「うん。資料やフィールドワークの最中に仕入れた噂、ない? 死の予言をする猿の神とか二枚舌の子供を産む猿の呪いとか、目が金色に光る猿の妖怪とか」

 文化人類学を専攻していた沙奈子は院へ進みポスドクを経て、今は講師をしている。俺と違って、人と話すより本や資料と向き合っているのが好きなタイプだ。

「なんかヤバいことに首突っ込んでんの?」

「まあまあそうかもね。でも、『一緒にいる』って言っちゃったから」

 これまで誰にも、沙奈子にも言ったことのない台詞だ。できないことを言って期待させたくなかったから、「結婚しよう」はもちろん「愛してる」もそれ以外も、永遠を匂わせる表現は使わないようにしていた。

「猿神の伝説や言い伝えはあちこちにあるけど、そういう話には心当たりないな。界隈に聞いてみる。あと、一応父さん達にも聞いてみとくわ」

「ありがとう、助かるよ」

 受け入れられた頼みに、安堵する。沙奈子は、ここと似たような田舎にある古刹の娘だ。七年前までは祖父と父親が寺を守っていたが、今は兄も加わっているかもしれない。

「お前のためじゃねえよ」

 凄むような悪態のあと、ぶつりと切れた。

 変わらない優しさに感謝して、座卓へ戻る。あちこちに零れ落ちた炒飯を拾い食い、熱心に食べ続けるきよを見守った。

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