第8話

――息を吸うように吐くように抱っこするの、やめなさい。

 仕事を終えると同時にきよを抱き上げた俺を、マダムは溜め息交じりに窘めた。

「じゃあ、無意識でずっと抱っこしとったの?」

 丸い目を更に丸くして聞くカウンター越しの女将に頷き、秋刀魚の身に大根おろしを盛り上げて口へ運ぶ。脂の乗った旬の味に大根の甘みが馴染んで、格別にうまい。今日の夕飯には、いきつけの小料理屋を選んだ。

「そう、なんか『歩かせる』って発想が頭になくてね。ああそうか歩けたんだ、って……お、そうそう、食べられたね。すごいなあ」

 俺の膝に座ったきよは、ぎこちなく割り箸を使って肉じゃがのじゃがいもを口に運ぶ。二人羽織で数度使ったら、使い方の肝は学んだらしい。賢い子だ。

「確かに、皐介さんマメだけえね。徹底的に甘やかして、なんもできんようにしちゃいそう。でもこの子のおかげで、手癖の悪さは抑えられとるんじゃないの?」

 女将は着物の合わせを確かめるように撫でながら、ちくりと刺す。まあね、と苦笑して手酌で猪口を満たした。

「どんな色男でも娘にだけは弱いって、本当ね」

「そんなことないよ。昔から女運には恵まれてるからね。はずれに当たったことがない」

 差し向けた徳利に応えて、女将は自分の猪口を差し出す。湿度の籠もる視線を俺にねじ込みながら、品のいい指先を揃えて酌を受けた。

「それでうまいこと言うたつもり?」

「やっぱりダメか。でも結局、許してくれるからね。感謝してるよ、こんな旨いもの出してくれるし」

「作っとるん、板さんよ」

 空になった徳利を置き、笑いながら酒を満たした猪口を呷る。

 女将は先月、一回抱いたところで引いた。俺より八歳年上で、ふくよかな目元と頬が目を惹く女だ。でも、雪深いと自ずとそうなってしまうのか、ここの女達は現実的ながらもとにかく情が深い。それでもママは子供がいるから抑えが利くが、バツイチ子なしの女将は留めるものがない。深入りすると、居心地がよすぎて抜けられなくなるだろう。そして、それを狙っているようでもある。

「あ、きよちゃん。お魚食べる? 秋刀魚」

 ほぐした身を口元に寄せると、きよは躊躇いなく箸に食らいついた。

「かわいいなあ、雛鳥みたい」

「骨抜きじゃないの、バカらし」

 呆れたように零して、女将は空いた徳利を手に奥へと引っ込む。見送る視線を、再び箸に食らいついたままのきよに戻す。幼い頃の俺とよく似た瞳が、仰ぐように俺を見つめていた。

――皐介は、ほんときれいな顔してるねえ。

――大人になったら女泣かせの、とんでもない色男になるよ。

――大丈夫よ、ロクさんの子供だもん。きっと優しく育って。

 滲むように蘇った記憶を丁寧に消し、きよの口から箸を引き抜いて置く。

「お箸は咥えたらダメなんだよ。お行儀が悪いし、危ないからね」

 相変わらず反応はないが、ちゃんと聞いているのは分かる。普通の子ではなくても、俺の。

「帰ろうか、きよちゃん」

 脇を掴むより早く翻って抱きついたきよを、なんとなく抱き締める。応えるように力を込めた幼い腕に、長い息を吐いた。


 東京生まれ東京育ちもピンキリで、俺は「おそらく」なんて不要な下流の出だ。家は戦後かと思うようなトタン張りの長屋の一室で、部屋は二つ。手前の座敷は仏師だった親父の作業場で、家の中はいつも木の匂いと木くずにまみれていた。家族は親父のみで母親はいなかったが、そのかわり長屋に住んでいた多くの女達に育てられた。離婚して住処を失くした女や旦那の暴力から逃げてきた女、出稼ぎに来て遁走してきた外国人の女、元から戸籍すらない女。大家だった親父は、困窮した女達に無償で部屋を貸していた。いろんな女が入れ代わり立ち代わり家に来ては、ろくに物も言わずノミを叩き続ける親父相手にあれこれ相談して、ちゃぶ台に布巾を被せた食事を置き、俺をかわいがって帰って行った。

 食事と洗濯も、女達がしてくれた。風呂は二日に一回、冬場は三日に一回、銭湯に通った。それでも臭いと言われなかったのは、何をしてもつきまとったあの忌々しい粉のせいだろう。髪を掻き回せば落ちてくるし、服やランドセルには常にうっすら積もり続けた、あの。

――こうすけくん、すごくいいにおいするね。

 まあ、女子にはウケが良かった。その分クソガキ揃いだった男どもの嫉みを買って、長屋住まいや貧乏をよく嘲笑われた。でも俺は平和主義者だったから、学校でのケンカは極力避けた。小学校低学年の頃には、男に嫌われようが人口の半分を占める女に好かれれば問題ないことを悟っていたせいでもある。あの頃に殴り飛ばしたクソガキは、一人だけだ。

――おまえんち、ろくでもない女ばっか出入りしてるんだってな。

 躊躇いなく叩き込んだ一発は、そいつの歯を一本か二本、折って血塗れにした。

――あたし達はいいんだよ、ほんとにろくでもないんだから。

――でも、守ってくれたのよ。嬉しいじゃない。

 そうね、そうよねえ、と狭い部屋に押し掛けてきた女達がさざなみだつように頷くのを見て、腫れた手を誇らしく思った。この先何があっても自分なら女達を守り続けられると、幼稚な万能感を抱いた。あまりに幼稚で、浅はかな。

 ふと感じた息苦しさに目を覚ますと、常夜灯を背に浴びた黒い……きよが俺の胸に乗って首を絞めていた。小さな手には似合わない力だが、舌が二枚あって死の予言をするような子供だ。大人並みの握力があったところで驚かない。

 それに、きよに絞め殺されるのなら、悪くはなかった。

 顔がじわじわと熱くなり、耳の端が痺れていく。喘ぐように口を開けると、濁った音が漏れた。

――……皐介、逃げ、ろ。

 久し振りの声が耳に蘇った時、洟を啜るような音がする。はっとして確かめたきよが、泣いていた。その肩に、何かいる。大きな丸い目が、金色に輝くのが見えた。

 音にならない声できよを呼び、跳ね起きて抱き締める。少し緩んだ小さな手の隙間に自分の手を差し込んで、尚も絞めようとする力に抗う。やはり、子供の力ではなかった。

「……きよ、負けるな、いやなんだろ」

 震えながら泣きじゃくるきよを、苦しい息の合間に励ます。

「どんなことが、あっても、俺が」

 こんな状況でも、次を迷う台詞に間を置いてしまう。言えばもう、このままではいられない。分かっているから、これまで一度も口にしてこなかった。できないことは口にすべきではない。傷つくのは俺ではなく、きよだ。でも。

「一緒に、いるから」

 初めて口にした誓いに、きよがしゃくりあげるのが分かった。次にはふっと力が緩んで、小さな体がくたりと凭れ掛かる。荒い咳を刻みながら、汗ばんだ熱い体を抱き締めた。

「……大丈夫?」

 尋ねた無事に、きよは俺の胸で小さく頷く。二つ目の意思表示に安堵して、少し落ち着いた胸で深く息を吸った。

「俺も腹、括らねえとな」

 煙草を選べない手で湿った額を拭い上げ、何も映らない砂壁を眺める。脳裏に残る金色の目に、記憶のどこかがざわつくのが分かった。

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