第5話
――頭が痛いって言われて、こう、額を押さえて立ち上がろうとしたけど、立ち上がれなくて、崩れる感じで。
救急隊と入れ替わるように現れた警察に、マダムは震える声で状況を伝えた。死因はまだ分からないが、脳溢血かくも膜下出血辺りだろう。
――あたまから、ちがでてしぬ。
外傷での出血かと思いきや、内部の出血だった。でもそんな違いは些細なことだろう、死と死因を予言したことに比べれば。母親が手放した理由が「これ」だとしたら、見つかったところで引き取ろうとはしないかもしれない。
「じゃあ、長尾さんが対応してるわけ?」
予言を除いた一通りの事情を聞き遂げ、ママはカウンターの向こうで水割りのグラスを傾ける。今日は白のスーツに合わせて、ネイルも淡い色だ。
「うん。家族が遺体引き取りに来るのも『俺が相手するからいいですよ』って。今度来たら、俺のボトルで好きに飲ませてやって。超えたら俺にツケといてくれたらいいから」
煙草を選べない手持ち無沙汰をつまみでごまかし、隣のきよを見る。この場に不釣り合いな姿はカウンターの一番隅の席で、黙々とママの作った家庭の味を食べ続けている。最初に差し出した箸は全く使えず、フォークになった。それも、握る持ち方だ。
「ごめんね。まともなもの食べさせなきゃって思ったんだけど、疲労困憊で何与えればいいか頭が回らなくてさ。ママの顔しか思い浮かばなかった」
「助けてって泣きそうな声で電話かけてくるから、何事かと思ったわよ」
ママはきれいに整えた顔を照明の下で煌めかせながら、きよを見る。小学生の子供を育てるシングルマザーだから、最近の子育て事情もよく知っているだろう。
「とりあえず事が進展するまでは面倒みたいんだけど、何すればいいのかな。親探しはしたいけど、施設を勧められるんなら児童福祉課は頼りたくないんだよね」
ひとまず仕事終わりに子供用品の店へ行って事情を話し、店員に手伝ってもらって必要そうなものは買い揃えた。新しい靴下と靴、髪を結ぶゴムも。今はとりあえず、二つに分けておさげにしてみた。女の子の髪を三つ編みにするなんて、小学生の時以来だ。
「母親が見つかっても、めでたしめでたしで済むのか疑問だし」
殻を割ったピスタチオを口に放り込み、癖のある味をロックで流す。バーボンの刺激が喉を熱くして落ちていく。
「箸が全然使えないのもそうだけど、服は着古して小さくなってるのに靴と靴下は新品で、合わない大きなサイズのを履いてた。爪は短くても、髪は伸ばしっぱなしっぽいし。衣食住が確保されてたとしても、杜撰なんだよ。幼稚園や保育園にも行ってなかったんじゃないかと思って」
「相変わらず、よく見てんのね」
「相手を観察するのは営業の基本だよ。そのネイル、いい色だね。よく似合ってる」
観察の成果をわざとらしく付け足した俺を鼻で笑い、ママはグラスを傾ける。
「あんまり世話してない感じがあるなら、小児科と歯医者に連れてった方がいいかもね。その手の親は見えないところに残すし、歯磨きは手を抜きやすいとこだから」
「ああ、なるほど」
確かに顔や手に痣や傷は見えないが、体は分からない。風呂に入れる時に確かめなければ。
「今の状況じゃ認可保育園は難しそうだけど、そこにある無認可保育園ならワケありもOKよ。私も子供が小さい時はたまに世話になってたから、よく知ってる。そこで良ければ口利くけど」
「ありがとう。助かるよ、やっぱりママを頼って正解だった」
「いいわよ。どうせこんなことでもなきゃ、私のとこなんか来ないんだから」
ママは皮肉を込めて言い返し、俺のグラスの露を拭った。皮肉や嫉妬はどこの女でも変わらないが、ここの女は良くも悪くも言葉に湿度が乗る。日向でも乾ききらない土に触れているような感触だ。
「ごめんね。でもほんとに、さっきはママの顔しか浮かばなかったんだよ」
「知ってる。あんたはそういう男よ」
ママ、と呼ぶ向こうの声に応え、ママはふくよかな手をひらりと振って去って行く。
ママは、こっちに来て初めて抱いた女だ。三回くらい寝て、なんとなく子供に返さなければならないような気分になって、連絡をしなくなった。潮時は大抵「なんとなく」で、その感触が押し寄せたら引いている。それを越えても抱いたことはないし、その方がいいと知っている。
「きよちゃん。俺は、まだ死なないのかな」
グラス片手に確かめたきよは、いつの間にかきれいに平らげて、大きな瞳でじっと俺を見ていた。
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