第4話

 あの手紙を見せ、俺より年上に見える警察官に状況を説明する。

「相手に心当たりはないんですか」

「あるんですけど、全員は覚えてないし覚えてる相手も連絡先が分からないので」

 しばらく通った相手なら覚えているが、数回だけの相手は記憶にない。通った相手も潮時とともに連絡先を消して離れたから、跡形もなかった。『もう来ないのね』と諦めたようなメールが届いても、誰から届いたものなのかすら分からない。

「心当たりがないんなら協力できますけど、あるんならねえ」

 呆れたような声に我に返り、髪を掻き上げて溜め息をつく。煙草を取れない指で、カウンターを叩いた。

「でも俺は営業で、二ヶ月前に初めて来たんです。ぽんぽん動くので本社しか動きを追えてないのに、一般人が情報掴んで追い掛けて来るのは無理がありますよ。ここの客が俺に押しつけていった可能性の方が高いです」

「こっち出身の相手と東京でうてて、こっちで偶然、て可能性もあるでしょ」

 ああ、そうか。こっち出身の女、か。

――私の田舎、ものすごく山奥にあるんだよね。

――冬になると、雪に埋もれてしまうの。

――田舎すぎて二度と帰りたくないよ。雪がすごくて。

 東京は地方出身者の坩堝だ。社会に出たあとは東京人よりも多く出会って、あそこが「東京であること」を実感させられた。

――東京出身って、逃げるとこなさそうだよね。

 そう言って俺を慰めたのは誰だったか。大人になってからは多分、同郷の女を抱いたことはない。

 どこか窮屈そうに生きながらも「東京は自由だ」と、実家には決して帰らないと誓ったあの女達の中に、いたのだろうか。

「絞り込めました?」

 窺う声に斜め上から視線を戻し、顎をさすっていた指を置く。

「いや、まだです。ただ、たとえそうであっても母親が育児の『い』の字も分からない奴に押しつけていくなんて、非常事態ですよ。ノイローゼが極まってるんじゃないんですか」

「だとしてもねえ。それじゃちょっと……ねえ?」

 何か起きてからでないと動けない、と言いたいのだろう。苛立ちはするが、そういうものなのだから仕方ない。ストーカー規制法だって、現在の状態まで整うにはかなりの時間を要した。

「まあ相手にもし旦那さんや家族がおれば、『家に帰ったら子供がおらん』て通報があるでしょ。一応、報告は上げときますよ。職務質問受けたら困るでしょうし」

「通報がなかったら、どうするんですか」

 隅の長椅子に大人しく座るきよを一瞥したあと、少し小声で尋ねる。

「月曜日に、市役所の児童福祉課に相談してみたら? あそこならどこに五歳の子供がおるか把握しとるだろうし、育てられんってことなら施設を紹介するだろうし」

 あっさりと口にされた「施設」に、思わずきよを確かめた。俺の上着に埋もれる変わりのない様子に安堵と、一抹の不安を抱く。あまりにも、大人しすぎる。全国各地で子供連れの家族を見てきたが、ここまで大人しい子供は見たことがない。恥ずかしがったり緊張したりで素が出せないような感じではなく、ぼんやりとたゆたっているように見える。母親に捨てられたショックなのだろうか。

「心当たりがあるんなら、引き取って育てたらどうですか。母親じゃなきゃいけんって法はないし。そんだけ女泣かせて刺されとらんのだけえ、娘もよう育てられるでしょ」

「刺されてないのは、相手が良かっただけですよ」

 苦笑して手紙をポケットに突っ込み、きよの元へ戻る。椅子の前にしゃがみ込み、澄んだ瞳と目線を合わせた。

「きよちゃん、帰ろうか。とりあえず今日は、俺と一緒にいよう。おじさんばっかの宿舎だけど、悪い人達じゃないから」

 モデルルーム開設とともに準備される営業の宿舎は、今風に言えば「シェアハウス」だ。一軒家での共同生活で、部屋こそ別れているものの風呂やトイレ、台所や居間は共有するしかない。この支所は俺に敵意を剥く奴がいないから楽だが、場所によっては露骨な奴もいる。女の嫉妬も大変だろうが、男の嫉妬も面倒くさい。

 伸ばした俺の手に応えるように、きよはだぶついた上着の両腕をもたげて抱き上げられる。初めて見えた意思に安堵して、腰を上げた。

「何か分かったら、お手数ですがご連絡ください。昼間ならモデルルーム宛てでもいいんで」

 改めてカウンター向こうに願うと、警察官は俺ときよを見比べるように視線を滑らせた。

「親子て言われても疑わんくらいには、よう似てますよ。ま、ごくろうさんでした」

 労いの言葉に個人的な感想をくっつけて、やる気なさそうに見送る。自分が見て似ているものは、他人が見ても似ているのか。やっぱり俺の子……なのだろうか。もちろん俺の子なら認知するのはやぶさかではないが、きよにとっては貧乏くじもいいところだ。俺ではないことを願うしかない。

 交番を出た途端触れる冷えた空気に、きよは俺の首に抱きついて顔を寄せる。図らずも触れ合った頬が、柔らかさと熱を伝えた。ふと眉間の辺りが緩む感覚に長い息を吐き、青白い街灯の下を行く。ポケットで揺れる携帯を取り出すと、長尾からの着信だった。

 足を止めて歩道脇に寄り、応答する。定形の挨拶を交わすより早く、大変です、と切羽詰まった声がした。

「所長が、倒れました。今、救急車を呼んだところです。高瀬さん、すぐ帰ってこられますか」

「……あ、ああ。今、帰り道だから急いで帰る」

 上擦った声に軽く咳をして答え、通話を終える。

――あのひと、しぬよ。

 思い出される不吉な予言に、いやな汗が滲む。まだ俺の頬に張りついているきよは、反対側で流れた今の電話を聞いただろうか。少しずつ、喉が乾いていく。

 ……今は、帰るのが先だ。

 偶然と片付けるには気味の悪い一致に判断を棚上げして、固まっていた足を再び進めた。


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