第3話

「どうしたんですか、その子」

 バックヤードへ駆け込んだ俺に、外回りから戻っていた長尾が驚く。長尾は俺の一ヶ月前に入ったしんがりだ。俺より二歳若いが、客の懐に入るのが抜群にうまい。どことなく犬っぽい顔立ちのせいもあるのだろう。

「外で煙草吸ってたら、知らないうちに目の前に立ってたんだよ。この手紙持って。すみません、マダム。この子にジュースもらえますか」

 はーい、と腰を上げたマダムに礼を言い、いやな汗で湿った額を拭う。手紙を開いた長尾が、えっ、と予想どおりの声を上げた。

「うっわ、マジですか」

「何、見せて」

 紙パックのジュースを持ってきたマダムは、ストローを刺してきよに渡したあと手紙を覗き込む。

「えっ、ほんとに? でもそう言われたら、確かによく似てるわねえ。眉毛が凛々しいし、ぱっちり二重だし」

「五歳なら、五年前?」

 俺の席にちょこんと座ってジュースを飲み始めたきよを、長尾とマダムが窺うように眺める。俺に似ていないのは、骨の細さと色の白さか。俺は仕事柄一年中日焼けしているが、きよは抜けるように白い。まるで、ろくに日を浴びたことがないかのようだ。

「妊娠期間があるから、六年くらい前ね。相手の女性に心当たりないの?」

 六年前なら東京とその近辺、九州を行ったり来たりしていた。三十の坂を越えようとするあの頃は、激務の合間に寄る部屋がいくつもあった。

――皐介、おいでよ。

 銀行員や公務員、カフェの店員からクラブのママまで、温かいベッドで柔らかな肉に溺れながら眠っていた。

「……ありすぎて絞り込めない」

「最低ですね」「最低ね」

 揃った非難の声に、苦笑で後ろ頭を掻く。まさかこんなところで自白する羽目になるとは思わなかった。

「でも俺、ここに来たの初めてなんだよ。ぽんぽん動くから本社しか居場所を正確に把握してないのに、一般人が情報掴んで追い掛けて来られると思うか? まだここの来店客が『あの人なら身に覚えありそう』で押しつけた可能性の方が高くないか」

「自分で言ってて情けなくなりませんか、それ」

 長尾は笑うが、俺も混乱していて何を言っているのかよく分かっていない。

「まあ、高瀬さんが父親かどうかは置いといて。どんな理由にしろ、母親が我が子を他人に押しつけていなくなるってのは相当のことよ」

「ですよね、俺もそれが気になってて。ちょっと、この子連れて交番まで相談に行ってきます。いつまでも俺みたいな男と一緒にいるんじゃ、かわいそうですから」

 マダムの冷静な声に喫緊の課題を思い出し、零れ落ちた髪を掻き上げる。残り少なくなったジュースを吸い上げる音に腰を落とし、きよと視線を合わせた。

「飲んだ? じゃあちょっと、一緒におまわりさんのところ行こうか」

 受け取った紙パックをゴミ箱に落とし、俺をじっと見据えるも頷かないきよを抱っこして腰を上げた。

「こういう男に引っ掛かっちゃうと、尾を引くのよねえ。絶妙な塩梅でクズなのよ」

「マダム?」

 溜め息交じりに辛辣な評価を放って席へ戻って行くマダムに苦笑したあと、長尾を見る。

「長尾なら一人でも心配ないけど、頼むな。所長には出る時に言っとく」

「了解です、いってらっしゃい」

 快諾した長尾にあとを託してバックヤードを出ると、所長が席でアンケートシートに向き合っていた。さっきの客のものだろう。

「どうしたの、その子」

 赤ら顔に浮かんだ驚きの表情に、否応なく思い出されたきよの言葉をどこかへ押しやる。

「一服してた時、知らないうちに置いていかれてたんです。心配なので、ちょっと交番で相談してきます」

 所長はマダムと同じ五十代で、正確には営業職ではなく事務職だ。名目上は本社からの出向だが、噂では上に嫌われての左遷らしい。所長なら役職的には問題ないが、うちは所長も第一線で営業をする。普通は、叩き上げの営業が就くポジションだ。舌が回るタイプでなければきついだろう。

「そうか。まあ、気をつけて」

「はい。抜けてすみませんが、いってきます」

 言葉少なに返し、所長は再びデスクへ視線を落とす。恰幅の良い体に、スーツの背や腕がはちきれそうで見苦しい。病的なほど太っているわけではないが、成約率が低いのは見た目のせいもあるだろう。武器にできるほど突き抜けられないのなら、太るべきではない。

 軽く会釈して玄関へ向かい、子供用の椅子にきよを座らせた。

 靴箱から手にした小さな靴が真新しいことに気づいて、改めてきよの格好を確かめる。ワンピースは色褪せて、明らかに新品ではない。きよには少し小さいのか、袖が足りなくなっていた。

 新しいのは靴と靴下、か。白い靴下は、踵の後ろが余ってだぶついていた。気づいて履かせた靴も、ベルトがあるから脱げていないようなものだ。母親が、子供のサイズをこれほど間違えることがあるだろうか。

「じゃあ行こうか、きよちゃん」

 頭をよぎったいやな予感をまた押し込めて抱き上げ、日の暮れ始めた外へ出る。途端に吹きつけた冷たい風に、一旦きよを下ろした。

「風が冷たいね。ちょっとこれ着てて」

 上着を脱いでしゃがみ、きよに着せてみる。Y体でも地面に着いてしまうだぶつきがかわいらしくて、思わず笑った。

「ごめんね、大きくて。でも、かわいいなあ」

 頭を撫でて再び抱き上げ、近くの交番へ向かう。歩きながらそれとなく住んでいる場所や苗字、母親のことを尋ねてみたが、きよはまるで反応しなかった。これまで口を開いたのは、あの。またぞわりと背中が冷たくなったが、振り払って交番へと足を踏み入れた。

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