第2話

「マダム、来週の土曜までに506号室の書類を揃えといてください」

 見送りを済ませてバックヤードへ戻り、夫婦のアンケートシートをマダムに差し出す。

「あら、売れそう?」

 パソコン画面から視線を上げたマダムは、シートを受け取りながら尋ねる。我が支所唯一の花は地元採用の五十代で、PCスキルに長けた敏腕パートだ。優雅な雰囲気に「マダム」と名づけたのは俺だが、本人も気に入って呼ばれている。

 あとは所長も営業二人も県外者、俺は東京で長尾ながおは神奈川、所長は千葉出身だったか。本社の指示で全国各地のモデルルームに飛ばされる、根無し草みたいな仕事だ。

「うん。これからフォレステル見に行って、来週決めに来ますよ。あっちの営業は目の前の物件さえ売れればいい、競合を腐して取るタイプなんで。あ、フォローレターは俺が書きます。お手数掛けますが、504号室もシミュレーションだけ出しといてもらえますか」

「了解。相変わらず鮮やかねえ。これで五戸目?」

「これが成約したらそうですね。ちゃっちゃと売って次行かないと、本部長にどやされますんで」

 答えつつ鈍い音を立てる首を回し、肩を揉む。営業の中にもいろいろな役目があって、俺は売りやすい時期に売り切れず硬直化した現場に飛ばされる「しんがり」要員だ。どこのマンションでも、モデルルームオープン時は盛況で成約率も高い。スタートダッシュでどれだけ売れるかで、命運が決まる。

 そして、ここはつまずいた。田舎だし競合が少ないからと、オープン時に投入すべき精鋭部隊をほかに回しすぎたせいだろう。俺が飛ばされてきた二ヶ月前には、半年掛けても四十戸中の十六戸が売れ残った状況だった。

「すみません、煙草一本吸ってきます」

 断りを入れてバックヤードを出ると、まだクロージング中の所長がいた。会釈で背後を通りすぎ、外へ向かう。あれはもう無理だな、時間を掛けすぎだ。

 磨かれた革靴を履きながら、気づかれないように溜め息をつく。ドアをくぐり、モデルルームの陰へ向かった。

 上着の内ポケットから煙草を取り出し、咥えて引き抜く。嫌煙だの値上がりだのと愛煙家にはつらいご時世だが、電子煙草に手を出す気にはなれない。

「あれくらい詰め切れよ、クソが」

 火を点けて最初の煙と共に愚痴を吐き出すと、頭も気分もすっきりする。

 ここへ来て真っ先に来客データを掘り起こし、クロージングまで詰め切らなかった客を見繕って手書きのフォローレターを送って訪問し、こまめなフォローを続けて成約に至ったのが三戸。たまにしか来なくなった新規客を捕まえて一戸、今日のが成約したらもう一戸。見込み客が三人いるが、それを入れても八戸だ。

 収入は低くても見栄っぱりで楽観的な県民性の土地なら、十六戸なんてすぐに捌ける。でもここは、雨と雪が叩き上げた忍耐力と現実主義で財布の紐が異常に固い。舌先三寸で丸め込もうとすれば悪印象を与える土地で演出すべきは誠実さ、俺が最も苦手とするやつだ。相性が悪い。

「雪が降る前に動きてえなあ」

 今は十月半ば、雨は多いもののそこまで煩わしくはない。湿度のお陰で肌の調子がいいのはありがたい、と会話に盛り込むと、女性客の食いつきがいい。共働きが増えて妻の発言権が強くなったこの頃は、妻にターゲットを絞った方が割とうまくいくのだ。ただ、ここの女はちょっと。

 慣れてしまった曇天から視線を下ろすと、目の前に幼い子供が立っていた。おっ、と思わず驚きの声を漏らして体を引き、慌てて煙草を遠くへ離す。

「どうしたの、迷子?」

 口調と顔を子供用に整え、携帯灰皿に煙草をねじ込んだ。もしかしたら、客の子供かもしれない。紺色の地味なワンピースを着た……三歳くらいだろうか、女の子だ。幼い割に派手な顔立ちだが、にこりともしない。真ん中で分けられた長い黒髪が、肩でたわんでいた。

「家族と一緒に、お家を見に来たの?」

 目線の高さまでしゃがみ込んだ俺に、子供は握り締めていた紙を差し出す。ありがとう、と受け取って開いたそこには、とんでもない内容が綴られていた。

 『高瀬たかせ皐介こうすけ

 きよ 5才

 あなたの子供です。よろしくお願いします。』

「……は?」

 読み上げて数秒、素の俺が感想を漏らす。俺の、子供?

 手紙から視線を上げ改めて確かめたきよの顔立ちは、確かに俺と……いやいやいやいや待て待て待て待て。

「えっと、きよちゃん。お母さんは、どこかな?」

 全身から冷や汗が噴き出るのを感じつつ、冷静さを保ってきよに尋ねる。きよは答えない代わりに、視線を落とした。これは、本格的にまずい気がする。

「一旦、一旦落ち着こうか、きよちゃん。喉乾いてない? とりあえず、中に入ろう」

 どうしていいか分からない手できよを抱き上げ、バックヤードを目指す。マダムなら、俺に分からないことが分かるかもしれない。

 回り込んだ表では、所長が客の車を見送っているところだった。その背を一瞥して、足早にドアをくぐる。

「あのひと、しぬよ」

 不意に澄んだ声がして、動きを止める。きよを確かめると、肩越しに所長を指差していた。

「あたまから、ちがでてしぬ」

 継がれた言葉と射抜くような視線に、背筋に冷たいものが走る。どう答えていいのか分からないまま、きよの靴も脱がせてバックヤードへ急いだ。

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