猿の器

魚崎 依知子

一、

第1話

 どうぞ、と背後から差し出された二枚の資料を受け取り、内容を一瞥する。予想どおりの結果に頷き、テーブルに並べた。

「今、先程ご記入いただいた収入に基づいて、返済シミュレーションを行いました。希望された頭金ゼロの場合が、こちらになりますね」

 手で指し示した一枚を、若い夫婦が身を乗り出すようにして確かめる。夫の膝には二歳の娘がいて、妻のお腹は大きい。二人目が産まれたら今の賃貸では手狭になるからいっそのこと、というのがモデルルームへ訪れた理由だった。

「まだお若いので、三十五年ローンを組んでも六十三歳で支払いが終了します。定年は二〇二五年から原則六十五歳になりますから、お引き止めしなくても良いかなとは思います。ただ、こちらを御覧ください」

 蛍光マーカーで囲まれた返済計画欄に指を置くと、反対側から小さい手が真似をする。俺の笑みに、屈託のない笑顔が応えた。ふくふくとした頬の、愛らしい子だ。

「頭金ゼロでご契約いただいた場合には、このように毎月の返済額が収入の二十五パーセントになってしまうんですね。つまり、収入の四分の一を返済が占めることとなります」

「多いってことですね?」

 控えめに確認する夫は建設作業員で、年収約四百万。既に県の平均年収辺りにいる。二人目の妊娠を機に一般企業を退職した妻は、今後はパート勤務を希望しているらしい。貯蓄はあるものの、不測の事態に備えてとっておきたいと頭金ゼロを希望した。

「そうですね。ケースバイケースではあるものの、お客様のように幼いお子様がいらっしゃる場合は、これから生活費や教育費が増えていくことを考える必要があります。既にお子様が独立されたあとなら、二十五パーセントでも構わないと思います。ですがお客様の状況であれば、私は二十パーセント程度をお勧めしています。そして、こちらが二十パーセントにする場合のボーナス併用シミュレーションです」

 頭金ゼロで二千六百万借り入れた場合、返済額は月約七万円で月収の約二十五パーセントほどだ。一方、頭金を五百万入れて借入を二千百万にした場合、返済額は月約五万六千円で約二十パーセントになる。月一万四千円の差はデカい。

「まとまった頭金は必要となりますが、教育費以外にも車の買い替えなどでローンが重なる可能性もあります。住宅ローンの支払いが五万六千円ならマイカーローンで二万円足しても月収の二十七パーセントですが、月七万円なら九万円になって三十パーセントを超えます。借り入れは年収の三分の一が原則ですから、超えた分はこれからの収入の伸びで埋められると考えたとしても、実際三分の一も返済に回るのは大変ですよ」

「そうですよね……でも、五百万かあ」

 隣でじっと資料を眺めていた妻が、溜め息交じりに零す。自己申告の貯蓄額は二人で五百万、ほとんどは妻が独身の頃に貯めたらしい。筋骨隆々の夫が気遣わしげに隣へ視線をやるところを見るに、購入の決定権は妻にあるのだろう。色白で華奢、髪は出産に備えて短くしたのかもしれない。堅実で現実的な、母親らしい貫禄があった。

「今は角部屋をご希望ですが、角部屋でなければ二百万ほどお安くなります。自己資金の割合を減らされたい場合は、お部屋の変更もお勧めです。もしくは」

 ちらりと確かめた斜向かいのテーブルでは、所長が見込み客相手にクロージング中だ。いいところまでお膳立てしてやったから、多分いけるだろう。

「他社なんですが、うちよりもう少し安い価格帯でなかなかいいマンションがあるんですよ。フォレステルっていうんですけど、ご存知ですか」

「はい。実はそことどっちにしようかって、迷ってて」

 少し身を乗り出して声を潜めた俺に、妻は戸惑ったように答える。まあ営業がいきなり競合他社のマンションを勧めだしたのだから、当然だ。

「共用部や部屋の設備は、やはり価格が高い分うちの方が充実しています。ただ、あちらの立地はうちより小・中学校がちょっと近いんですよね。近隣にある公園の数も、あちらの方が一つ多いです。大人の暮らしやすさではうちが勝っていますが、これから本格的に子育てを始められるお客様には、あちらもお勧めできます」

「ほかのとこ勧めて、大丈夫なんですか」

 素直な疑問を投げた夫に、頷いて再び姿勢を戻す。さっきから笑みを絶やさない娘に目を細めたあと、夫婦に視線を移した。

「ほんとは良くないんですけど、人生の懸かった大きな買い物ですからね。どんなにいい部屋でも、お客様に笑顔で住んでいただけなければ意味はありません。自社の物件を売る前に、家売る者としてのポリシーです」

 同じほどの金を払うなら少しでもいいものを買いたいと願うのは、人として当然の欲だ。ただいくら良いものであっても、売り方が悪ければ「少し劣るもの」にも簡単に負ける。良いものなら黙っていても売れるなんて、愚考の極みだ。

 夫婦は納得した様子で頷きながら、二枚の資料を手にとって見比べた。

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