兄だった男
夏の名残りの白い花びらが、風に巻かれて飛んでいく。丘の上、夕暮れ、目の前にいるのは十年の月日を重ねた、かつての少女。
「生きろよ」
クロードの口を衝いて出た言葉は、風音に散っていった。
──モニックの丘でマルリルと再会した時、クロードは初めて〝凍てつく夏至〟を知った。穢れを燃やし尽くして訪れる、永遠の冬。
「実際のところそれは、どんなものなんだ?」
クロードの質問に、彼女は襟巻きの下で首を振る。
「わからない。でも二度と夏が来ないなら、世界は冷え切って静かになりそうだね」
「生贄って、どういうことだ? 人ではなくなるって、それは……」
「まくしたてるの、相変わらずだな」
呆れ混じりに笑う彼女は、少し構えばムキになっていたあの頃とは違う。
「膿を出し切るようなもの、だと思う。魔法と自然と人間の均衡が崩れた。作り直すために、一回すべてを壊す──たぶん、私が」
淡々と告げる彼女の、襟巻きから覗く瞳が陽炎のように揺らいだ。
「奪い去って与え直す、そのための炎と血なんだ。私は火竜になる。人だったことはきっと忘れてしまうだろう」
瞬きに押し出された雫を風が払って、彼女の瞳には再び光が宿る。
「これでも楽になったんだ。自分が何者かわからずに生きていていた頃より、ずっと」
「マルリル……」
伸ばしかけた手に気づき、クロードは慌てて彼女に背を向けた。彼女はもう子供ではない。それはクロードも同じだ。握りしめた拳を胸に押し当てて、吐き出す息で衝動を逃す。
「厄災をもたらす火竜を倒しにきてくれるだろ? 騎士様」
一転、明るい声。無言でいると、背中に平手が飛んできた。
「冗談だよ。……私だって火竜にはなりたくない。厄災を起こせるなら、防ぐ方法もあるはず──私自身の力で」
「俺にも何か、できることはないか?」
クロードがゆっくり振り返ると、マルリルは俯いた。風の音がして、いくつかの花びらが二人の間を通っていったのを、クロードは記憶している。
「できれば魔法で殺し合うようなことを止めてほしい。戦争が一番、穢れにつながる」
でも無理しないで、と彼女は微笑んだ。
「大義なんか忘れて、自分の大切な人を一番に考えたらいい──お父さん、なんだろ?」
柔らかな表情は愛を知る者のそれでありながら、細めた瞳の中にクロードはいない。一抹の寂しさを認めながら、兄だった男は微笑みを返した。
モンテガント公にあしらわれたクロードはレティシアたちのいる小邸に戻った。帰りの早さで、事が思うように運ばなかったのは悟られているはずだが、レティシアは労いの言葉を掛けてきただけだった。
「お父様! 今度はいつまでいらっしゃるの? モンテガントの街はどんなところだった?」
まとわりつくシーファを、
「お父様はお疲れなの。夕食まで向こうで遊びましょうね」
レティシアにも聞きたいことが山ほどあるだろうが、なだめて目配せし、クロードを一人にさせてくれる。今はとても顛末を話す気にはなれない。妻の気遣いは有り難かった。
モンテガントはチチェクと組んで帝国の半島侵攻に噛んでいた。アンブロワーズが負ければ、半島は帝国の配下になり、半分はサランジェ家の領地だ。アンブロワーズが勝てば、半島対大陸の総力戦になる。厄災の前に戦乱の犠牲者がどれほど出るか。
事態はすでに動き出してしまっている。モンテガント公はもはや心を許せる相手ではなくなってしまった。しかしそれでも、半島全土が戦場になる可能性がある今、レティシアとシーファはここに残ったほうが安全だろう。モンテガント公にとっても大事な人質だ。危険に晒す真似はするまい。
クロード自身は、まずは中央で王太子の命令に背いた件の申し開きをする必要がある。それで仮に騎士号を剥奪されても、厄災への備えを訴え、不要な争いを止めなければ……。
情報と状況を整理しようとするが、到底クロード一人の手に負えるものではない。ため息を吐いて寝椅子に横になると、クロードは目を閉じた。
その晩の夜更け、クロードは寝室で腕の中のレティシアが寝息を立てるのを待っていた。眠っているうちに発つつもりで──しかしレティシアはゆっくりと目を開いた。
「眠れないのかい?」
クロードがレティシアの髪を撫でると、レティシアはその手に軽くキスを返した。
「あなたがいなくなってしまいそうで、怖いの」
そう言って胸に顔を埋めてくる妻の背は震えている。クロードはあやすように腕を回した。
「いなくなったりはしないさ。ただ、モンテガント公のお考えは、思ってもみないほど壮大だった。私はセルジャンに戻るが、君とシーファはここにいてくれ」
「何もかも……もう、どうにもならないのでしょうか。争いが起こって、厄災も避けられないと?」
「レティシア、大丈夫だよ。モンテガント公にとって君たちは大事なお客さんだ。ここにいれば危険はない」
「嘘だわ」
小声だがきっぱりと、レティシアは言った。
「あなたの顔を見ればわかる。交渉はうまくいかなかったのですね」
「嘘じゃない。君とシーファの幸せを考えて……」
「嘘よ! じゃあなぜわたくしに選ばせてくださらないの? 命さえ無事ならば、幸せと思えと?」
レティシアは泣き出した。締め付けられたクロードの胸に、食い込む爪が追い討ちをかける。
「すまない。一人の男である前に、ラヴァルはアンブロワーズの家臣だ。半島に暮らす人々のために、職務を全うしなければ。君たちを巻き込みたくないんだ。わかってくれるね?」
涙を拭おうとするクロードの指を拒絶して、レティシアは体を起こした。
「わたくしもシーファもラヴァルの人間です。サランジェ卿と決裂したなら、ここにいる意味はない。私たちもセルジャンへ帰ります」
暗がりに慣れた目で見上げるレティシアは、胸の前で拳を握りしめていた。
「厄災が本当に訪れるなら、どこにいたって同じことでしょう。シーファはこの命に換えてもわたくしが守ります。どうか、死ぬまであなたの妻でいさせてください」
声は上擦っても、淀まない言葉と揺らがない眼差しは、話し合いの余地を感じさせない強さがあった。クロードも起き上がって向き合う。
「……モンテガントから追っ手がかかるかもしれない。私の罪で投獄される可能性もまだ残っている。それでも?」
「何もできないまま待っているより辛いことはありません」
そう言うとレティシアは、涙目を擦って笑ってみせた。瞬間、クロードは初めてレティシアの顔を見た気がした。
親の決めた結婚だった。家柄、年頃、教養……条件で絞り込まれた候補の中から選ばれた相手。
もちろん気に入ったから夫婦になった。愛していると、思っていた。幸せにしてみせると。
だが今、妻は絶望に涙している。なけなしの笑みを繕ってつなぐ最後の希望が、この不甲斐ない自分なのだ。近くにいるのに見ようとしていなかった、手を離してはいけない存在。在りし日にすり抜けていった少女が、風の中で微笑む。
改めて目の前を見つめる。レティシアの睫毛はこんなに長かったか。瞳はこんな色だったか。眉の毛色が髪よりも濃いのには、今気がついた。
クロードは無言でレティシアを抱きしめた。体温をなぞりながら息遣いを感じる。脈打つ拍動を聞く。一瞬の沈黙ではあったが、クロードには充分だった。体を離してレティシアの手を取る。
「ありがとう」
クロードがこぼした言葉に、レティシアは目を
「何があっても、君はクロード・ラヴァルの妻だ。一緒に帰ろう、俺たちの家へ」
レティシアの頬を両手で包んで、額同士をくっつける。首にしがみついてくるレティシアを抱き止めて、クロードはそのまま寝台に倒れた。
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