名前を呼んで

 サリーナが茶の支度に行ったあと、一人になったイヴェットは生まれてひと月の息子を抱いて外に出た。午後の陽射しが注ぐ庭は暖かい。息子はすやすやとイヴェットの腕で眠っていた。

 無事出産したイヴェットは、満ち足りた毎日を送っていた。初めての育児は戸惑うことも多いが、村の女たちが入れ代わり立ち代わり世話を焼いてくれる。村長宅は始終賑やかで、赤ん坊の泣き声が聞こえないくらいだ。

 貴族習慣の茶の時間だけは、村長のおかみさんが気を使ってサリーナ以外を家から遠ざけてくれる。村人たちにとっても日暮れまでのもう一仕事に備えて休憩する頃合いで、今日もサリーナが炊事場に向かったのを合図に、めいめい家に帰っていった。

 陽射しで自分の背中を温めながら、イヴェットは息子の寝顔を見つめる。リオネルの面影が胸を締め付けた。小さな手、細い指には一本一本に小さい爪がついている。少し前まで自分のお腹の中にいたと思うと不思議だ。この小さな人と一つの体を分け合って一緒にここまで来たのだと、不意な実感がイヴェットの涙腺を緩ませる。

 セルジャンで葬られ、火竜姫と偽ってリオネルの妻となり、嘘が露見するのを恐れて逃げた。たどり着いたこの村では、着飾ることも美食もない。自分の手で赤ん坊の汚物を処理し、沐浴をさせる。

 それでも、お節介な村女が荒れた手に薬草を塗ってくれる。楽しみの茶はサリーナが用意してくれる。身に余る幸運だ。ずっと居させてもらえたら、どんなにかいいだろう。

 だが、命に代えても守るべきものは自分の体から分離した。いつかはイヴェットとして罪を償わなければならない。母としての責任を果たせない罪を新たに背負ってでも。

 ぐっと食いしばって、天を仰ぐ。気を緩めている場合ではない。自分がいなくてもこの子がちゃんと生きられるように、手筈を整えておかなければ――。

 部屋に戻ろうと歩きかけると、道のほうが騒がしいのに気付いた。見ると、十数名はいるだろうか、ぞろぞろと兵士ふうの男たちがやってくる。それがラビュタン兵だとわかったのは、彼らの先頭にグザヴィエの顔を認めた時だ。

 イヴェットの心臓が跳ね上がった。硬直した足で、やっと一団に背を向ける。

 通り過ぎるわけがないと知りながら、イヴェットはじっと身を固くした。足音がだんだん大きくなる。それは少し離れたところで止まった。

「ラビュタン国王陛下のお出ましです」

 グザヴィエの声が告げる。こう言われては、背を向けたままではいられない。振り向くと、グザヴィエやほかの兵士たちが跪く前に、表情を強張らせたリオネルが立っていた。イヴェットは顔を伏せて、息子を抱いたまま両膝を突いた。

「君は、何者だ?」

 リオネルが問う。

「火竜姫レアを騙り、ラビュタン王家とその領民を謀った罪人でございます」

 イヴェットは答えた。

 息苦しいほどの沈黙が、永遠に続くかと思われた。物々しさに村人たちも家の中で息を潜めているようだった。赤ん坊だけが、切り離された時空の中にいるように、安らかに寝息を立てている。

「……その子を、抱かせてもらっても?」

 リオネルの求めに、イヴェットは無言で頷いて息子を差し出した。リオネルは腰を屈めて抱き上げようとする。が、その手つきがあまりにも危なっかしくて、イヴェットは思わず立ち上がった。

 イヴェットが首を支えた状態で、尻のほうへリオネルの手を導く。しっかりと自分に引き付けさせてから、もう一方の手で首の支えを代わる。安定したのでイヴェットがゆっくり手を放すと、息子は目を覚まし、泣き出してしまった。

 おろおろするリオネルから息子を受け取ってあやす。まだ寝ぼけ半分だったようで、背をトントン叩いてやるうちに再び眠りについた。見守るグザヴィエや兵士たちからも安堵の空気が漏れる。

「名前は?」

 リオネルが呟いた。

「正式な名は、まだありません」

 息子のことだと思ってイヴェットは答えた。

「子供じゃない、君の名前だ」

 リオネルの目には、涙が溜まっていた。「僕はこれから、妻を何と呼べばいい?」

 涙声で言うものだから、イヴェットは思わず笑ってしまった。笑いながら泣いた。リオネルが急に抱きついてきたものだから、息子がまた起きてしまった。赤ん坊の泣き声が、しゃくりあげながら絞り出したイヴェットの返事を掻き消す。


 イヴェット。私の名前は、イヴェット――。

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