囁きに微笑んで
セルジャンに灰が降ってからひと月。休戦協定が整い、中心地の灰の掃除も済んで、逃げ出していた人々が少しずつ戻ってきた。雪が降る前に城下町の機能が復旧できたので、国王陛下も満足していると、プルデンスは言った。
ラヴァル邸、夕食のテーブル。クロードはレティシア、シーファとともにプルデンスの話を聞いていた。
戦場から帰って以来、プルデンスは出現した魔物とその灰について、調査研究を命じられて多忙を極めている。やっと今日休暇を与えられて、ラヴァル邸へとやってきたのだった。
「王太子殿下はラビュタン・チチェク戦での鬱憤をモンテガントで晴らしたいようだが、ナデージュ平原の個体は行方がわからぬうえ、また新しい母体が出現しないとも限らぬ。国王陛下はお許しにはならないだろう。何しろご自身の目でも見たのだからな、魔物と、それを倒す怪物を」
天を衝く火柱が上空の魔物を焼き尽くすところを、多くの者が目撃している。眺めのよい王城からはさぞかしよく見えたであろう。
「あれは火竜姫だろうと、皆言っている」
プルデンスはパンをちぎって口に入れた。
「間違いないでしょう」
クロードが応じた。「騎士団にも市民からの情報が寄せられています」
「平原での火竜姫作戦から目を反らすにはちょうどいい」
「あの作戦は……。いかに叔母上の指示とはいえ、シーファを戦場に出すなど、二度と承服しません」
クロードがため息をつくと、隣でレティシアも困り顔で頷く。
「我が麾下の炎の壁を突破されるのは想定外だった。さすがのわたくしも肝を冷やしたが、大物が釣れた。結果は上々、シーファの手柄だ。誇れ」
大魔導は少しも悪びれない。
「妹を怪物呼ばわりするのもやめていただきたい」
畳みかけるクロードに、
「今はマルリルと言ったか。怪物は火柱の比喩だ、彼女ではない。わたくしにとってはお前と同じく可愛い姪なのだぞ」
プルデンスはグラスの中で酒を回しながら、不敵な笑みを浮かべた。機嫌がいいのは、これまでどれだけの文献を当たっても知り得なかった現象を、国費で研究できるからだろう。
ラビュタンが反旗を翻した理由は偽物を掴まされたことへの抗議だ。火竜姫レアの身代わりにイヴェットを指名したのはプルデンスだった。
休戦への運びを機に、プルデンスは自邸を含む私財のすべてを処分してラビュタンへの賠償に充てた。王の名義では書状を送らせるのが精一杯だったが、アンブロワーズに謝罪させることにも成功した。ラビュタンはプルデンスの誠意を認め、ラビュタンの王政復権を条件に和解に応じた。
クロードは、プルデンスを恐ろしい人だと改めて思う。貴族の中でも名門に生まれ、令嬢として育ちながら、魔導に魅せられ、道を開き、戦場へ繰り出すことも厭わない。王族にも一目置かれ、ドレスを手放しローブ一枚になっても目の輝きを失わない。
それに引き換えて自分は。
クロードは内心で恥じ入る。騎士団長としての責務を果たしている自負はあったが、ただ与えられた役割を演じているに過ぎなかった。モンテガント公にあしらわれた時のことを思い出すと頭痛がする。父と叔母の影でぬくぬくと育った自分は、政治の前では無力な子供だった。
〝凍てつく夏至〟のことはまだ何もわかっていない。これからも想像だにしない出来事が半島を――世界を襲うだろう。より多くの人を助けようと思うなら、国や軍を動かす力が必要だ。綺麗事に囚われず、時には手を汚すことも考えねば……。
思案から意識を食卓に戻すと、シーファが匙を持ったまま固まっているのに気付いた。レティシアはプルデンスの講釈に相槌を打っている。
「シーファ、どうかしたのか?」
クロードが声をかけると、シーファは慌てて二、三口スープを頬張ってみせた。七つの子にとって、戦場での体験は大人の想像を絶する恐怖だったはずだ。帰ってきてからも体調や表情の変化は気にかけている。
「食欲はありそうだね。何かあったら、すぐに言うんだよ」
「大丈夫よ、お父様。美味しくいただけているわ」
シーファは頬に手を当てて笑顔を見せた。
──かわいい姫よ、助けてくれるね?
──きっと、来てくれるね?
頬に当てた手、指先にちりちりと。形はないのに、確かにそこに「ある」。
〈第一部 Invisible Moon 完〉
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