エピローグ 形はなくても

月は満ちて

 よく晴れて風のない、穏やかな午後だった。サリーナは炊事場で湯が沸くのを待っていた。茶を準備しているところだ。炊事場の窓に差し込む陽は暖かく、もういつ雪が降ってもおかしくない時節なのを忘れる。

 茶器を二人分、茶葉とポット。焼き菓子は授乳中のイヴェットの分を多めに。必要なものを盆の上に並べていると、かまどの鍋に湯気が立ってくる。いつもどおりだ。

 サリーナは手巾を取り出した。中に包まれた木片を手のひらで包む。目をつむり、胸の前で温めてから、テーブルにそれを置いた。これも、ベルカントにもらって以来、〝いつもどおり〟に加わった所作だ。

 セルジャン侵攻を目指していたチチェク・ラビュタン連合軍は、ナデージュ平原でアンブロワーズ央軍と交戦中に魔物と遭遇、同日にセルジャンは灰に埋もれた。

 復興と魔物対策を急ぐアンブロワーズは休戦を申し出、受け入れたチチェク・ラビュタン連合軍は兵を引いたのだった。

 だがまだ、この北部の小さな村にはその報せが届いていない。だから今日も、サリーナは束の間一人になれるこの時間にひっそりとベルカントを想う。

 故郷セルジャンに兵を差し向けた男。にもかかわらず無事を願ってしまうのは、きっと特別な感情ではない。セミフや、タイスの想い人にも無事でいてほしい。

 ただ、もう一度会えたらと思うのはベルカントだけだ。もし訃報が届いたら、サリーナはあの夜腕の中に飛び込まなかったことを後悔するだろう。

 一方で、もし戻ってきても、会わないことを心に決めている。 

 仮にチチェクが国土を奪還したら、ベルカントは王になる。嘆願書は結局送らずじまいだったが、地盤固めのために、モンテガントのような有力者と血縁を結ぶべきだ。

 そもそもサリーナの身分では王族とは釣り合わない。期待してはいけないと、自分を戒める。どんな結果にも驚かぬよう、傷つかぬよう、選択を誤らぬよう……。

 テーブルに置いた〝約束の月〟に向かって手を組むのは、祈りではなく、張り裂けそうな心を理性の内側に閉じ込める動作だ。

 やがて、鍋から立つ湯気の量と泡がはじける小さな音が、与えられた時間の終了を知らせる。サリーナは用意していた鍋に茶葉を入れた。

 母乳の出がよくなるとタイスの母が教えてくれた薬草茶は、煮出していると独特な香りが立つ。飲みやすくするために干し果肉を入れるよう言われたのを思い出し、テーブルの上の小壺から幾粒かを手に取った、その時だった。

「俺のには入れないでくれよ。それ、嫌いなんだ」

 覚えのある声に、サリーナは固まった。振り返れずにいると、後ろから手が伸びてくる。親指に仄白い石が光っていた。

 落ちた果肉が弾んで転がっていった先に、小さな月が円く満ちていた。

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