降ってきた異変

 シーファの小さな顔に丸く見開いた目は、遠く空を仰いでいる。プルデンスにしがみついて、首だけを不自然に曲げて、恐怖しながらも目を逸らせない──そんな様子だ。

「話はここまでだな」

 ベルカントは剣を収めた。気味の悪さもあるが、何より確実に天気が荒れる。早めに引き揚げたいのは、アンブロワーズ側も同じだろう。

「二日、いや一日でもいい! 時間がほしい。人間同士で血を流しあっている場合ではないと今にわかる!」

 震えるシーファを背に庇ってクロードが叫ぶ。ベルカントは無言で視線だけ返した。眉根を寄せたクロードの表情には、嘘やまやかしはないように見える。それだけに、この場で判断を下すのは早急な気がしていた。

 沈黙は実際には数秒であったろう。睨み合う者たちにこちらを見よとばかり、閃光が瞬き、天が轟いた。大粒の雨が音を立てて落ちてくる。雨足はみるみる強まり、炎壁は高さを失った。

 ベルカントは舌打ちした。

「陣へ戻る! セミフに退却の合図を」

 馬の向きを変えると、行く手に新しい炎が立ち上がる。プルデンスだ。

「後退を約束せよ。でなければここから帰すわけにはいかぬ」

「口先だけでいいならな!」

 ベルカントは振り返り様に矢を放った。が、差し向けられた炎がそれを瞬時に焼き尽くす。蒸発した雨が白く棚引く中に、ひとすじの黒煙が上がった。

「叔母上!」

 クロードは咄嗟にプルデンスからシーファを離した。

「攻撃の意思はないと言った騎士の面目を潰す気ですか!」

「あちらはただの脅しと承知のようだぞ? でなければ金属矢を使うはずだからな」

 出した炎を手のひらに丸め、プルデンスは微笑した。

「あんたこそ、ただの時間稼ぎだろ」

 すでに二の矢をつがえて、ベルカントが鼻を鳴らす。「腹の探り合いはもう飽きた。考えがあるなら付き合ってやるぜ」

「よろしい」

 プルデンスは笑みを消した。

「シーファが震えている理由、今、わたくしも確信した。厄災は流言ではない……この場で共に証人になろうではないか!」

 プルデンスは、もはや壁の体を成さない炎を一瞥し、優雅な手つきで指示を送った。炎壁係の魔導士は放出をやめて集まってくる。うちの一人が、クロードに剣を拾って手渡した。それを見た手勢が身構えるのを、ベルカントは軽く首を振って制した。

 雷鳴は頭上から、瓦解を思わせる音を響かせている。鎧を衣服を、地面を雨が叩き、無言の者たちが立ち尽くす。

 セミフの小隊は退いたのか、雷雨に遮られているだけか、ここまで届く怒号や応酬はなかった。

 火が消えれば濡れそぼった体が急に冷える。馬の首で指先を温めて、ベルカントは矢筒から金属矢を抜いた。馬もすでに何かを感じ取っているようで、落ち着きがない。

 周囲の気配を拾えず、まともに目を開けてもいられない中で、覚えのある臭いが鼻先を掠め、ベルカントは固唾を飲んだ。

 動物とも植物とも違う、風が吹いても澱む臭気。大陸の荒れ果てた土地に充満していたあれは、

「魔物の瘴気……」

 口を衝いて出たのと、ほぼ同時に天から何か落ちた。ちょうど炎壁が立っていたあたり、人の頭大の、泥の塊のような物体だった。

「何だ!?」

 誰かが声をあげた。

「こっちにも!」

 雷鳴や豪雨とは別に、重みのある物が地面に叩きつけられ、潰れる音が四方八方から聞こえる。

 シーファの頭上目掛けて落ちてくるそれを、クロードが剣で両断する。その間に、プルデンスに別の一体が迫る。プルデンスは炎を放つが、激しい雨に掻き消されてしまった。

「叔母上!」

 クロードは叫ぶが間に合わない。あわや――というところで物体は弾けた。少し離れたところに金属製の矢が地面に突き立つ。ベルカントが放ったものだ。

 立て続けに矢を放つベルカントの背後で、仲間の一人が呻き声とともに落馬した。直撃したのだ。

 振り返るとイルケルが馬から降りて落馬した仲間に駆け寄っていた。助け起こそうとするが手を止め、見守るベルカントに首を降る。

 次にイルケルは落下物を調べた。それは青みがかった半透明の粘膜に覆われた球体だった。中核は赤黒く脈打って、破れた膜からにじり出ようとしている。

「生き物……?」

胞衣えなだ」

 プルデンスがイルケルの手元を見下ろしていた。「魔物の卵のようなものだ。上空に産み散らしている母体がいるのだろう」

「魔物!? 馬鹿な……魔法戦で荒れたとはいえ、出現が早すぎる!」

「厄災の前触れ、いや、始まりであろう。次の夏至までどれほど降り、どれほど孵るか。考えただけでもおぞましい」

 イルケルは落ちた胞衣の中核をナイフで突いた。

 暫し痙攣したのち脱力する様は生き物の最期に似ているが、刺そうが斬ろうが血は出ない。種類にもよるが、動物に近い見た目でも魔物は血液を持たない。だから血を求めて人を襲う、と言われている。

 自然とは異なる摂理を持ち、共存を図れない相手。それが魔物だ。荒れ地に知らぬ間に湧いて、いつのまにか消える。近寄らないことが第一の対処法とされているのに、今、その卵が空から降ってきている。

「これは、こんな現象は半島の魔導史には例がない! 大魔導殿は何かご存じなのですか?」

 声を張り上げるイルケルに、

「わたくしの知識で想像しうるすべてを想定した。だが、これは……」

 プルデンスは青ざめた表情で天を仰いだ。稲光が走る曇天に映る影は、昇降しているのか、伸縮しているのか――大きくなったり小さくなったりを繰り返している。まるで脈を打つように。

 熟練の魔導士二人が呆然としているうちに、またひとつ、ふたつと胞衣が落ちてくる。クロードが剣で、ベルカントが弓で応じるが、

「クソッ」

 矢筒に伸ばした指に触れるものがなくなり、ベルカントは弓を捨てた。

「後にしろイルケル!」

 ベルカントは親ほどの年の男を怒鳴りつけた。「馬を連れてこっちに来るんだ」

 言って自分も馬を降り、クロードのところへ引いていった。

「使え!」

 手綱をクロードに押し付ける。

「お前が乗って、チビと大魔導を引っ張り上げろ。ほかの魔導士も空いてる二頭に乗り分ければいい」

 ベルカントが顎で示す先、イルケルが自分の馬と落命した仲間の馬を引いて向かってくる。

「急げよ! まだ降ってくる!」

ベルカントのまっすぐな視線をまじまじと見返したクロードは、剣を収めた。

「……感謝する」

 クロードは鐙に足を掛けた。


 その日、セルジャンには灰が降った。雪と見紛うほどに舞い、積もった。王城へ続く目抜き通りに人影はない。穴の開いた家屋、道端に放置された荷車、倒れた人影……すべてが灰に埋もれ、時を止めていた。広場の噴水だけが覆われるのを拒絶して、さらさらと水を流していた。

 まだ降りやまぬ灰の中、路上で、マルリルはあおむけに寝ていた。しばらく風の音しか聞こえていなかった耳に、灰を踏みしめる音が混ざって、近づいてくる。足音の主はすぐ横で立ち止まると、しゃがんで顔を覗き込んできた。

「大丈夫か?」

 カカだ。瞬きしてみせるとカカは軽く息を吐いて、安心したようだった。

「起き上がれるか?」

「うん……」

 かすれた声で、マルリルは答えた。

 カカはマルリルを抱き起こすと、顔にかかった灰を息で吹き飛ばした。頬に手を添えると冷え切っている。鎖骨から続く鱗は顎にまで達していた。灰から端だけ出ていた襟巻を掘り起こし、広げて頭から被せる。

「頑張ったな」

 カカはマルリルの頭を撫でた。

「怒らないのか、力を使って」

「仕方なかったんだろ? 見ればわかる」

「でも、こんなに…こんなに殺してしまった」

 うつむいて震えるマルリルを、カカは胸に引き寄せた。

 ナデージュ平原でベルカントとクロードが胞衣に襲われていた頃、セルジャンも同じ現象に見舞われていた。

 朝からすっきりしない天気だった。カカは前日から郊外に出ていて、マルリルは一人、宿屋で過ごしていた。妙な胸騒ぎがし始めたのは昼過ぎからだ。じっとしていると落ち着かず、街をうろついた。衛兵に声を掛けられ、揉めているうちに雷を伴って雨が降り出し――胞衣も降ってきた。

 街中ではすぐに魔物に対応できる者はいない。胞衣の直撃に遭う者、落下後孵化した魔物に襲われる者、逃げ惑う集団の中で押し倒され踏みつぶされる者……。悲鳴と怒号に耐え切れず、マルリルは上空の母体目掛けて火柱を放った。

 雲が割れ、雨が止み、一時、太陽の光が戻る。暫くして焼き尽くされた母体が灰となって散った。街中に降り積もっているのは、それだ。

「魔物を殺すのも、人が魔物に殺されるのも、穢れを生む原因としては同じだ。お前がやらなければ、王城の兵士がやっただろう。もっと犠牲を払いながら」

「うん……」

 もう火花も出せないほど消耗したマルリルの体に、カカの屁理屈が沁みる。

「衛兵が様子見に出てこないうちに街を出よう。お前が頑張ったから、中心地から少し離れれば被害はない」

 横抱きにマルリルを持ち上げて、カカは立ち上がった。

「自分で、歩ける」

「無理するな。ご褒美だと思えばいい」

「これで済ませる気か? 大体お前はいつも――」

 マルリルが足をばたつかせると、カカの口づけが唇を塞いだ。

 灰が降りしきる街は、暫し沈黙した。

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