炎壁の駆け引き
踊り狂う炎が、風向きに逆らってこちらに向かってくる。ラビュタンの魔導士が五、六人でそれを相殺している間に、騎兵や歩兵が攻めてくる。目の前の状況を、馬上のベルカントは夢でも見ているかのような気分で眺めていた。
「前線は陣形崩れました!」
伝令の報告に、隣のリオネルも呆然とする。
「逆風を上ってくる炎など! あり得ない、普通の魔導士では──」
「アンブロワーズは『火竜姫』だと申しております!」
「レアか? そんなはずは!」
リオネルが声を荒げると、付近のラビュタン兵もざわついた。
「しかしこの火勢! 半島統一時を知る者は本物に違いないと!」
伝令が言葉を継ぐうちに、火柱が生きた大蛇のようにのたうって自軍の魔導士を飲み込んだ。
「リオネル、兵を退け! 距離を置いて立て直すんだ」
言いながらベルカントは馬の鼻先を前線に向ける。
「どうする気だベルカント!?」
訝しむリオネルに背を向けて、ベルカントはチチェクの魔導士を数名呼んだ。
「レアかどうか、確かめてくる」
矢筒を背負うと、セミフに王家の指輪を渡す。「俺の振りをして西寄りに敵を引きつけてくれ」
無言で頷くセミフとのやり取りに、リオネルは仰天した。
「危険だ! 君に何かあったらチチェクの民はどうなる」
「よく言うよ、自分のしたことは忘れたのか?」
笑い飛ばして、ベルカントは振り返る。
「王が生き残っても国がなければ意味はない。俺だけで済むなら安いもんさ」
「そういう問題じゃないだろう。何年も隠れていたのは何のため──」
「そう簡単にやられはしない。お前は自分の心配をしていろ!」
リオネルを遮って言い捨て、ベルカントは馬の腹を蹴った。
散り散りに逃げ帰ってくるラビュタン兵の合間を縫って、ベルカントは四人の魔導士と前線に向かった。
風の音に火炎の唸り声が重なる。前進するにつれて焦げた匂いが濃くなる。空には黒雲が立ち込め始め、籠った熱気が喉を焼く。小隊を率いたセミフが右手に回り込み、それに対応する攻防がやや西に向きを変えた。ベルカントは馬を止めて炎の出どころに目を凝らす。
「主体の術者の周りに別の魔導士が炎壁を立ち上げていますね……目隠しでしょうか」
魔導士の一人が分析する。
「イルケル、どうだ」
ベルカントに呼ばれた中年の男は、大魔導プルデンスの
「配置と操兵は央軍のものと見受けます。あの火力は確かに火竜姫規模だが……違和感がある。騎士団の守りがついていないのも不自然です」
「この目で確かめる。突っ込むぞ!」
ベルカントが馬を走らせると魔導士たちはそれに続いた。近づくと炎壁は二階ほどの高さがあるのがわかる。向こう側は見えない。
「少しでいい、真横から炎を当てて炎壁の高さを抑えてくれ」
「はっ!」
ベルカントの指示に四人は速度を上げて炎壁に向かっていく。こちらからの炎の勢いで、垂直に立ち昇る炎は敵側へ火先を傾けた。そこに矢をつがえたベルカントが馬で走り込む。
「跳べ!」
合図で馬が高く跳ね上がった。完璧に飛び越えるには少し高さが足りないが、燃える勢いが真上でなければ、突っ切れる。息を止めて熱気の向こうに目を凝らす。そこにいるのは、本物のレアなのか。
「子供!?」
うねる炎の出どころにいたのは、年端もいかない少女だった。後ろから女魔導士が制御を手助けしている。
ベルカントは狙いを女魔導士に合わせて矢を放った。傍の騎士が気づき、剣でそれを叩き落とす。ベルカントは馬に乗り直し、着地した。跳躍の勢いのまま敵陣に突っ込み、魔導士の陣形を崩す。炎壁が消えて突入してきた仲間に騎士らが気を取られた瞬間、馬上から術者の少女目掛けて飛び降りた。
「お父様!」
少女が上げた叫びに、騎士が振り返る。ベルカントは少女に飛びつくと、諸共に二、三転して止まった。女魔導士の指示で再び炎壁が囲み、ベルカントの乗り捨てた馬が行く手を阻まれて右往左往する。ほかに動く者はいない。
「これが『火竜姫』か」
体を起こしながらベルカントは少女の腕を背中に捻り上げた。ともすると折れそうな細さだ。
顔を見ればまだ十にもならなそうな子供だった。佇まいから良家の子女だと窺える。視線の先には矢に対応した騎士。あれが「お父様」か、とベルカントは素早く場を見定めた。
騎士は剣を構えているが距離がある。安易に踏み込んではこないだろう。遠巻きの四人の魔導士は炎壁係で攻撃してくる気配はない。炎壁を背にイルケルたち。見上げれば、女魔導士。
「あんたは、大魔導だな」
「いかにも」
ベルカントを見下ろすように、女魔導士──大魔導プルデンスは落ち着き払って名乗りを上げた。
「そちらは?」
「名乗るほどのもんじゃない」
ベルカントは短く答えた。しかし隠したところで、出戻りのイルケルを見ればチチェク人なのは明白だろう。プルデンスはイルケルに一瞥をくれてから、片眉を上げてベルカントを眺めた。チチェク滅亡以前から軍人をしている世代だ。第三王子の肖像画を見たことがあってもおかしくないが、まさか。
ベルカントは少女の影で少しずつ体勢を整え、立ち上がった。
「こんな子供を駆り出すとは、アンブロワーズは余程切羽詰まっていると見える」
「ならば、まさか子供を盾に逃げ
プルデンスは動じない。
「どうかな、育ちが良くないもんでね」
吹かしてみるも、声も出せず震えている子供に剣を突きつけるのは躊躇われた。
この少女は確実に重要人物だ。捕らえているだけでも敵は迂闊に動けない。だが、甘い考えを残していては逃げに転じるのは難しい。ここは非情になるべきか……。ベルカントの額から汗が伝った。
「閣下──」
膠着しかけた場に一石を投じたのは、騎士だった。「シーファを、何卒」
整った面立ちに焦燥が滲んでいる。
「……そうだな」
プルデンスが頷くと騎士は剣を収め、足元に置いた。そこから三歩後ろに下がって跪く。ベルカントは訝しんだ。
「なんのつもりだ」
「騎士の名に懸けて、攻撃の意思がないことを示す。その子を放してくれ」
「本気か?」
「お仲間にこの首預けよう。そのうえで、こちらの事情を話す」
騎士が言うと、プルデンスもその隣に座った。この場は騎士に預けたということだろう。
「……いいだろう」
ベルカントはイルケルたちに目で合図した。少女を捕らえたまま、じりじりと間合いを詰める。仲間の魔導士が短刀を抜いて騎士に突きつけた時、ベルカントは少女から手を放した。
「行け」
促すが、少女は呆然と立ち尽くしたまま動かない。ベルカントは両手のひらを見せながら数歩退がった。顎をしゃくって、騎士から仲間を遠ざけもした。そこでやっと少女は、騎士──父親に駆け寄った。
娘を抱き止めて、騎士は心なしか表情を緩ませた。少女はまだ青ざめて震えている。目を開けてはいるが焦点が合っていない。恐ろしさに自失した状態だろう。
「理解に感謝する。私はクロード・ラヴァル、央軍の騎士団長だ」
プルデンスに娘を預け、騎士は略式で名乗った。「約束どおり、事情を話そう」
「手短かに頼むぜ。熱くて敵わない」
ベルカントは言いながらイルケルたちのいる側へ回る。いつの間にか乗ってきた馬は落ち着いて、仲間の馬に紛れ込んでいた。
「何だお前、ちゃっかりしてるな」
鼻先を撫でて一瞬気を緩めたが、ベルカントは鎧に足を掛けた。目の前の相手に攻撃の意思がなくとも敵陣にいる事実は変わらない。
「悪いがここで聞かせてもらう」
馬に跨ると、騎士は頷いた。
戦線がセルジャンに近づいてくることに焦れたアンブロワーズは央軍の投入を決めた。出撃命令が下れば、采配は将軍に委ねられる。そこでプルデンスは、火竜姫を使う案を考えた。抜擢されたのがクロードの娘・シーファだった。
幼さゆえにまだ制御は不安定だが、その点を熟練した魔導士が補えば、〝千里を薙ぐ〟火竜姫の出来上がりだ。
「表向きにはレアを抱き込んだことにしておきたい。炎壁は味方にシーファを隠すためのものでもある」
超えてくる者がいるとは思わなかったが、とクロードは馬上のベルカントを見上げた。
実行部隊をごく少数で編成し、央軍本隊に先駆けて前線に立つ。左軍には心強い援軍となる一方で、ラビュタン・チチェク側には混乱や恐怖を与える効果を狙った。
「幼い我が子を戦場に連れ出してでも果たしたい目的、それは、一人でも犠牲が少ないうちに戦いを終わらせることだ」
燃え盛る炎を背後に、クロードは大真面目な顔をしている。
「寝ぼけたことを。央軍、ラヴァルといえばチチェクを滅ぼした張本人だ。レアの養家で、火竜姫のすり替えにも深く関わっている。犠牲を払わず終わらせようとは虫が良すぎるんじゃないのか?」
言いながらベルカントは、視線を天にずらした。熱で歪む輪が縁取る空に、雲は先刻より色濃く立ち込めている。
クロードは再び跪いた。
「貴殿は、チチェク側である程度身分のある方とお見受けする」
恭しく頭を下げる。「こちらも時間がない。率直にお願い申しあげる」
無言のままのベルカントに、クロードは続けた。
「まだ央軍本隊は到着していない。今のうちにチチェク・ラビュタン軍はここから北二日の位置まで後退を。必ずアンブロワーズから休戦の申し入れをする」
「休戦?」
ベルカントは手綱を握り直して鼻を鳴らした。「そっちが降伏すればいい」
「無論。だが、私は国に意見できる立場にない」
「独断か、この『火竜姫』作戦は?」
クロードは頷く。
「……アンブロワーズは降伏しない。だが休戦へ持ち込むくらいはできる。時間が稼げれば和解へ漕ぎ着ける道も見えるはずだ」
「信じるとでも?」
「思えないからこその作戦だ」
苦渋に満ちた表情から、この騎士の覚悟が生半可でないことはベルカントにも汲み取れた。チチェクにも実力者として聞こえた大魔導プルデンスを巻き込めば、一時的な休戦へ国を説得するのは不可能ではないのかもしれない。しかし、
「残念だったな。事情があるのはお互い様だ」
ベルカントは剣を抜いた。「チチェクは退かない。国土を取り戻すまでは!」
「若い」
割って入ったのはプルデンスだ。「なあ、イルケルよ」
話を振られたイルケルは目を伏せた。
「〝真の主〟のもとに戻れて何より。……皮肉ではないぞ。歪な主従の中にも、そなたらチチェク魔導士の忠誠は確かにあった。引き止められなかったのはただわたくしの力不足。それが口惜しい」
プルデンスは、シーファを胸に抱いたまま続ける。
「雨が降り、炎が使えなければ、数が物を言う騎兵戦だ。我が兄ラヴァル将軍ではこのような手ぬるい歓迎では済まぬ。イルケル、そなたは覚えていよう」
「その名を聞くだけで震え上がる者もいましょう」
イルケルは神妙な面持ちで答えた。
「右軍も温存している。数では我らには敵わぬ。若い命を無駄にせぬよう、言って進ぜるのだな」
心なしか柔らかな眼差しで、プルデンスはイルケルとベルカントを見比べている。
「後退を約束するなら追撃はしない。いずれにせよ天気は崩れ、魔導師団は役に立たぬ。雨が止むまで陣で茶会でもしていよう」
「随分余裕だな。気に入らないのはその上から目線だぜ」
ベルカントは剣先をプルデンスに向けた。「お情けは望んでいない。この戦いで敗けるなら、チチェクの命運はそこまでだ!」
雷鳴が遠く唸る。取り囲む炎の明るさでわからなかったが、昼間とは思えない暗さの空には、時折稲光が走っていた。
「失礼、要らぬ世話だったな。戦いを終わりにしたいのは本心。だが」
プルデンスは懐から取り出した扇で口元を隠した。
「厄災が訪れるから逃げて備えよと言っても信じてはくれまい?」
「厄災?」
振り返ったベルカントに、イルケルは首を振る。クロードが立ち上がってプルデンスの前に出た。
「異変はもう始まっている。このままいけば次の夏至を迎えることはできない」
「今度は流言か」
口の端で笑ったが、ベルカントは背筋に冷たいものが走った。敵陣で今さら恐怖するはずもない。何かもっと別の、不穏な空気が肌に触った。炎に囲まれている息苦しさも手伝って、のしかかる黒雲に出口を塞がれたような錯覚に陥る。雷鳴が近づく。
「お、お父様、大叔母様……」
シーファが再び震え出した。
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