クロードの覚悟

 膝のうえで眠りに落ちたシーファを、クロードは無言で抱きしめていた。久しぶりに父に会えた娘のはしゃぎぶりを思い出して場を外していたレティシアだったが、ロゼから毛布を渡されたのを機に声をかける。二人のいる寝椅子の後ろ、窓の向こうには、西陽が日暮れを知らせていた。

「もう夏は終わりですわ。ここでは、風邪を引かせてしまいます」

「ああ……わかっている」

 言いながら、立ち上がる気配も見せない夫に軽く笑みをこぼして、レティシアはシーファを毛布にくるんだ。もうレティシア一人で運ぶには、シーファは大きすぎる。クロードは名残り押しそうに娘を抱き上げて寝室へ運んだ。

 レティシアたちの仮住まいにクロードが到着したのは、昨晩のことだった。もうすぐ来るとシーファが言うのを願望の表れと聞き流していたレティシアは、セルジャンでは見たこともない酷い身なりで疲弊しきった夫を驚きと共に迎え入れた。

 昼過ぎまで泥のように眠って、起きたらシーファの相手をして──今、娘を抱いて寝室に向かった夫に、レティシアはまだ、モンテガント公と交わした約束を話せていない。

 居間にクロードが戻ったのでロゼを下がらせる。二人きりになった今、言わなければと思うと憂鬱だ。

「お疲れでしょう」

 聞きたいこともあるが、まずは寝椅子を勧める。しかしクロードはレティシアの前で足を止めて跪いた。

「謝らなければならないことがある」

「あなた、そんな……」

 つられてレティシアも膝を折った。「顔を上げてくださいませ」

 手を取って視線を合わせると、途端に言葉にできない想いで胸が詰まった。

「わたくしも、わたくしのほうこそ……」

「苦労をかけた。本当にすまない」

 泣き崩れるレティシアをクロードは抱きしめた。

「不本意ながら王太子の命令に背いてしまった。それはもう、聞いているか?」

 クロードの問いに、レティシアは頷きを返す。

「もちろん反逆の意思はないが、火竜姫を逃した罪は償う」

 背中に回る腕に力が籠る。今度は首を振ろうとしたレティシアの頬を、クロードの両手が包んだ。

「聞くんだ、レティシア」

 親指で涙を拭われて視界が開ける。そこには、怖いくらい真剣な表情のクロードがいた。

「未曾有の厄災が訪れようとしている」

「……レア様に何か関係が?」

「レアの力は、その厄災と関わりがあるらしい。行方不明になってから十年、謎を追っている。私は、私にできることをしたい」

 それでなぜクロードが、と、レティシアは思ったが言えなかった。クロードにとって〝レア〟は妹であり、護るべき姫だ。そして、護りきれなかった。──ふたりの関係は妻であれ不可侵の領域だ。

「私はこれからモンテガント公に会いに行く。力を借りて、火竜姫を利用しようとしているディディエ殿下を止めたい」

「それは、書状などでは叶わないのでしょうか?」

 レティシアの疑問は尤もで、貴族間の頼みごとで直接自身が出向くのは余程のことだ。極秘か、圧力か……いずれにしても多分に意図を含む。

 クロードは微笑んだ。

「ラヴァルには、もうこの体ひとつしかない。きみもシーファも、既に無理を言われているんじゃないのか?」

 水を向けられて、レティシアはモンテガント公の目論みを了承したことを打ち明けた。

「──私が不甲斐ないばかりに、重荷を背負わせてしまったね」

 神妙な顔でレティシアの頭を撫でたクロードは、次には笑ってみせる。

「きみのご両親からもたっぷりお叱りを受けることになりそうだ」

「私たちは帝国へ行くことになるのでしょうか?」

 問いかけはきつい抱擁で返された。

「……きみとシーファが一緒にいられるだけでも良かった」

 静かな絶望に塗りつぶされて、レティシアの心はやっと凪いだ。

「決めたのですね……」

 夫の胸を押し返す。されるままクロードは体を離した。すかさず背を向けて数歩、距離を取る。

「すぐに発つ。シーファを頼む」

「もう夜になります。明日、シーファと一緒にお見送りを」

「いや……きみもここでいい」

 行きかけた夫の後ろ姿に、レティシアは、

「もう! 娘への説明をわたくしに押し付けるのね!」

 精一杯の恨み言を投げた。クロードは振り返って笑った。


 モンテガント領主グラシアン・サランジェ卿の館にクロードが着いたのは、二日後の昼だった。

 レティシアのいる小邸からは夜通し馬を走らせれば翌日の日暮れに間に合う距離だが、家同士は旧知の仲とはいえ、相手も大貴族である。手前の交易街で一泊し、事前に訪問を知らせたうえで、身なりを整える必要があった。至急の用でも最低限の礼節を弁えていなければ軽んじられる。

 幸いにしてモンテガント公のお膝下、苦労せずとも十分立派な訪問着が手に入った。朝の茶が済んだところに迎えの馬車が来て、クロードを乗せていく。

 豊かさと賑やかさは王都セルジャンにも引けを取らない。半島まで流通しない大陸の産物、異国情緒あふれる空気はクロードの目にも珍しく、こんな時でもなければと妻子の顔を思い浮かべて薄く笑う。

 レティシアとシーファはすでにモンテガントの手の内だ。本意ではないが、反逆の疑いがかけられているうちは、下手に取り戻そうなどとしないほうがいいだろう。何が起こるかわからない今は、中央からできるだけ離れていたほうがきっといい。

 まずは協力を引き出すことだ。王太子ディディエを説得し、不毛な戦いを止める。

「戦場で剣を振るうよりも難儀なことがあるとはな」

 瞼を閉じて長く息を吐き出す。再び開いた目には、鋭い光が宿っていた。


「ようこそモンテガントへ。騎士になってからお越しになるのは初めてでしたかな」

 モンテガント公は満面の笑みで応接の間に通されたクロードを迎えた。「さぞやお疲れでしょう。どうぞお寛ぎを」

「いや、お気遣いには及びません」

 メイドに酒を運ばせようとする彼を制して、クロードは目を泳がせる。意図はすぐに汲み取られ、使用人は茶の一式を置いて姿を消した。

「──ずいぶんと、思い切られましたな」

 にこやかに椅子と茶を勧める様子に嫌味はない。クロードのことは子供の時分から知る人物だ。アンブロワーズ王家あっての将軍職・ラヴァルの人間が王太子の命令に背いたことに、純粋に驚いているのだろう。

 クロードは椅子に腰掛けた。出された茶には手をつけず、主人あるじが席に着くのを待つ。窓からは真昼の太陽が、晩夏の陽射しを注いでいた。

「本意ではありません。無論、反逆でもない」

「わかっておりますとも」

 モンテガント公はクロードの正面に座ってパイプをくゆらせた。「ラヴァルとしてはつらいところですな」

「つらいのは家族に背を向けねばならないことです」

 クロードの目が真っ直ぐに大貴族を捉える。交易で富み栄えるモンテガントがラヴァルに擦り寄ってきていたのは、中央への足掛かりを求めてのことに他ならない。アンブロワーズに追われる身となった者など、門前払いしてもいいはずなのだ。

「この場に通していただけたことで確信した。叔母プルデンスは、貴殿がアンブロワーズに裏切り者の烙印を押されても困らない程度には土産を渡したようですね」

「そう物騒な言い方を召されるな。国境に接する身として、時流を見誤るわけにはいかんのです」

 含みのある問いをモンテガント公は微笑で躱す。

「ディディエ殿下が大陸へ仕掛けるおつもりなのは、この辺境にも届いている。しかし、こちらからの宣戦布告は、いずれは半島もと考えている帝国に攻め入る口実を与えるだけだ。いくら一枚岩ではないとはいえ、本気を出せば我が都を踏み荒らし、セルジャンを落とすのは容易い。戦っても同じ結果なら、害を被る前に領民を守ることを優先するのが領主の務め」

「あなたが帝国に所領を明け渡すとは思えない。我が娘シーファと、他に何を売り渡した?」

 あくまでも冷静に、クロードは質問を重ねた。モンテガント公の片眉が上がる。

「クロード殿。中央に居場所をなくしたあなたが、なぜそんなことを知りたがる?」

「だからこそです。アンブロワーズは関係ない。これは、ラヴァルとサランジェの家同士の問題だ」

 クロードは相手を見つめる目に力を込めた。

「シーファを託された時に叔母から聞いているはずだ。火竜姫並の魔法の力が突然ラヴァルの直系に顕れた理由を……!」

 この場での沈黙は、肯定と同義だ。視線を外したモンテガント公は、細長く煙を吐き出した。

「なるほど、老いるわけですな。ラヴァルの若様がこんなに立派にご成長あそばしていらっしゃるとは」

 パイプを置き、居住まいを正した彼は、クロードの眼差しを改めて受け止めた。

「貴殿は十年前、火竜姫の血を飲んだ。シーファが魔法の力を得たのは、おそらくそのせいだと。私が聞いているのはそこまでです」

「つまりそこまでは帝国側にも伝わっていると?」

「ははっ、いやはや、敵いませんな」

 モンテガントは椅子の背もたれに反り返って指を鳴らした。途端、扉から私兵が数名駆け込んでくる。

「そう、二人目三人目のシーファを作る鍵は、クロード・ラヴァル──貴殿だ」

 窓の外にも配備の気配を感じながら、クロードは身じろぎもしなかった。

「この身体もすでに私一人のものではないというわけか」

「貴族に生まれた瞬間から、自分だけの人生などありはしないのですよ」

 捕えよと、合図を送るつもりだったであろう主人あるじの手が上がり切る前に、クロードは茶器の受け皿を割って卓をひっくり返した。物音に私兵が駆け寄るより早く、鋭利な断面を老公の喉元に突きつける。

「ではこの身体、お貸ししましょう。代わりにこちらの頼みを聞いていただく」

「相応の覚悟がおありのようだ。確かにラヴァルには昔作った借りも多い。聞きましょう」

 さすがは大物というところか、一瞬驚いた顔をしたモンテガント公だったが、すぐに微笑を取り戻した。椅子に座ったまま、口髭をしごいて次の言葉を待つ仕草だ。

「人払いを」

 クロードが促すと、老公は頷いて私兵を退室させた。

「パイプを拾っても?」

 返答の代わりに皿の破片を引くと老公は卓を起こし散らばった喫煙具を拾い始めた。足元には砕けた陶器とこぼれた茶が散乱したままだ。道具は無事だったらしく、しばらくして老公がパイプを吸い出した。クロードも自分の椅子に着いた。

「お待たせした。仕切り直しといたしましょう」

「……未曾有の厄災が訪れる。魔法による殺戮で穢れた大地に〝凍てつく夏至〟が制裁を下す」

「まるで御伽話だ」

「初耳ではないでしょう。叔母はレアが養子になってから、その力の謎を追っていた。あなたが落ち目のラヴァルの頼みをただで聞くとは思えない。シーファを委ねる時、私の秘密と併せて叔母から話を聞いていますね?」

「その時も同じことを申しあげた。何十年も生身の人間を相手にしてきた身には、前例のない厄災より明日のパンのほうが心配なのです」

 軽く笑いを混ぜる公に、

「その生身の人間の死が、この半島を覆い尽くすとしたら?」

 クロードはさらに詰め寄った。「厄災は貴賤を選ばない。あなたの身とて、安全とは限りません」

「だとして、私に何ができようか」

「これ以上火種を増やさぬことはできるはず。王太子の無謀を止めて、厄災に備えるべきだ」

「直接殿下に上申しては?」

「騎士団長程度の者の意見など聞き入れられないことはおわかりでしょう。レア確保の命から逃れる口実だと一蹴されるだけだ」

「確かに、火竜姫を連れていけば宣戦布告へまっしぐら、命令不履行なら上申などできる立場ではありませんな」

「あなたが、モンテガントと帝国の関係をちらつかせながら止めれば、ディディエ殿下も大陸侵攻を考え直すと思いませんか? 少なくとも、国王陛下はお許しにならないはず」

「なるほど」

 モンテガント公は考え込む様子で口をつぐんだ。パイプを置いてゆっくりと息を吐き出す。

「残念だが流れは止められない。もう戦いは始まっているのです」

「なんですって?」

「モンテガントが帝国と手を結ぶための贈り物は、他にもある──旧チチェク国域だ」

 帝国は国内のチチェク勢を半島攻略の先鋒に選んだ。

「国土奪還を餌にチチェク勢を捨て駒に使う策で、モンテガントはそれを支援する条件で帝国から自治を認めてもらう。すでに火竜領を巻き込んでセルジャンへ南下し始めている頃では?」

 口髭を摘む老公は口元だけで笑ってみせた。

「先程何を売ったかと聞かれていましたな? 売ったといえば、半島全部だ。帝国がアンブロワーズを滅ぼせば、半分ほどは私のものになる予定だがね」

「あなたが国を裏切るなんて、まさか、そんな……」

 衝撃的な告白に、クロードは眩暈を覚えた。戦争を止めるどころか、すでに始まっていて、恃みにしていた人物は首謀者側だったとは。

「離反してここまで来たあなただから話したのです、若様。火種を少しでも減らしたいなら、セルジャンに帰って一日も早く降伏するよう上申するのですな。シーファがこちらにある限り、あなたの身柄はいつでも押さえられる」

「この……!」

 軽蔑と悔しさ、憤りが一度に押し寄せ、クロードは卓の上で両の拳を握りしめた。込み上げてきた罵りの言葉を歯軋りで潰す。

「誰か。客人のお帰りだ」

 主人が手を叩く音で、部屋に案内役のメイドが入ってきた。クロードは無言で席を立ち、一礼して場を辞す。

「まだ若い。何もかもこれからだ」

 背中で聞いた老公の言葉は、気休めだろうか──閉じられた扉を振り返って、クロードはもう一度頭を下げた。

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