スティナ山麓

 ぶつかり合う金属音と雄叫びとが背後にそびえる山脈にこだまする。

 将軍マリユス──否、〝元〟将軍マリユスは、白髪交じりの顎鬚をなびかせて、スティナ砦の見張り台に立っていた。眼下に広がる荒野には一千人ほどの砦の兵が横並びに陣形を展開している。攻めてきた二千ほどの勢力は帝国の先鋒……大々的に帝国が半島へ攻め入る口実づくりの捨て駒であろう。砦の手勢は数では劣るが、シェブルーから援軍が来るまで持ちこたえれば挟み撃ちできる。

 早々に籠城を決め込んで援軍の到着を待つ手もあるが、砦から出て出迎えたのは、マリユスの独断だ。戦は始まった。目先の二千を相手に長引かせるのは得策でない。

 かつてラビュタン王のもとでその名を馳せた猛将は、火竜姫レアが領主となったのを面白く思わない一人であった。半島はアンブロワーズの掌中に収まり、武功よりも社交が物を言う時代へ。生来、政治や貴族付き合いに興味のないマリユスは、王の隠居を機に自らスティナ山麓へ退いた。今はこの砦が彼の城だ。

「やはり、います!」

 見張り台から乗り出すように戦場を見ていた若い弓兵が叫んだ。目を凝らすと土埃の合間に時折、火柱が立つのがわかる。間隔は陣形のように規則性を示し、マリユス自慢の騎兵を阻む。

「魔導士が、歩兵百あたりに一人か二人」

 弓兵の見当は妥当なところだ。前線でこの比率は半島従来の兵法が教えるより多い。白兵戦に魔法を混ぜ込んでくるのは──、

「チチェクの戦法だな」

 アンブロワーズの央軍ですらてこずった魔導士の活用。半島にその用兵術が伝わったのは十余年も前のことだ。中央で大魔導プルデンスが導入を提唱したが、希少な魔導士を、命を落とす可能性が高い前線に配置すること自体が現実的ではなかった。

 魔導士が希少なのは大陸でも同じだ。開戦のための工作で惜しげもなく前線に出してくるなら、帝国内でも浮いた存在であろうチチェク勢とみていい。

 火の手が上がるたび、じわりと戦線が退がってくる。

「火竜姫はこれを蹴散らしたのか……」

 老将の呟きは風に消えた。

 半島統一にあたり、アンブロワーズに制圧され散ったチチェク軍。魔導士は多くが央軍に降ったものの、チチェク式の一兵団を編成できる程度には大陸にも数を移していたということか。にわか仕込みでないなら厄介だ。

 シェブルーからここまでは六日かかる。援軍到着まであと二日。敵も挟み撃ちになることは予測しているはずだ。少しでも早く砦に踏み込みたいだろう。城攻めになれば魔法が有利だ。今の位置から後退せずに持ち堪えたい。

「弓兵も出撃! 窪地に誘い込んで狙え。私も出る!」

 マリユスが指令を下すと弓兵は短く返事をして見張り台を降りていった。彼にとっては初めての実戦だ。精鋭を揃えてはいるが、今回戦場に初めて立つ者も少なくはない。

 相手はどうだ。半島統一の戦火を生き延びた熟練者が多いか。若くても小競り合いの絶えないボブロフで育ったなら侮れない。

 少しでも士気が下がれば押し負ける。自ら前線を指揮して援軍到着まで保たせなければ。火竜姫のような都合のいい奇跡は起こらないのだから。

 マリユスはこの時まだ、火竜姫がイヴェットという別人だったことも、イヴェットが姿をくらましたことも、本物がセルジャンに現れたことも知らなかった。

 最初から火竜姫の威光も実力もあてにはしていない。「千里を薙ぐ」がどれほどのものであれ、急襲を受けるとすれば、火竜姫が介入できない隙を突かれるのはわかっていた。

 砦の兵には剣、槍の他に、魔法戦を想定した修練を積ませている。数は少ないが後方には魔導士も配備し、連携した戦法を取ることも可能だ。

 常からの辺境を守るための備えに元将軍の采配があって、二千の敵を相手にスティナ砦は善戦した。シェブルーからの援軍が着くまで、砦に退却することなくチチェク勢と思しき帝国軍を押し留めたのだった。


 サリーナは窓から差す月明かりで針仕事をしていた。一つしかないベッドにはイヴェットが寝息を立てている。腰掛けている長椅子がサリーナの寝床だが、横になってもなかなか寝付けないので、体を起こしたまま眠気が降りてくるのを待っているのだ。

 シェブルーでウゴ、ラウルと名乗る帝国兵に出会ってから五日。二人が連れてこられたのはスティナ山麓の牧草地帯にある小さな村だった。

 数十人の帝国兵が村を占拠していた。村人は一箇所に集められ、帝国兵の活動に協力を強いられている。

 今いるのは村長の屋敷で、数部屋あるうちの一部屋に二人で押し込められている。ほかの民家と違って柵で囲まれており、出入り口に見張りがいる。監視は厳重だ。

 サリーナが縫っているのは兵士の服だった。裂けやほつれを補修するようウゴに言われている。することがあるのは有り難かった。不安な時間を多少なりとも短く感じられる。ほかに村人がいるのも、ここまでの道中に比べれば心強い。もしイヴェットが産気づいても、ここならお産を手伝える人がきっといる。

 窓から覗く月は丸く大きく、明るい。サリーナは細く息を吐いて、作業の手を止めた。目の奥が痛む。心身にも疲労が蓄積している。それでも眠気はなかなかやってこなかった。

 部屋は静まり返っている。喉の渇きを覚え、グラスの水を飲み干すと、水差しが空になっていることに気づいた。自分が寝てしまった後にイヴェットが目覚めて飲むかもしれない。用意しておきたい。

 イヴェットが熟睡しているのを確認して、手燭を灯す。水差しを手に、物音を立てないように部屋を出て炊事場へ向かった。

 廊下の角を曲がって炊事場の入り口が見えた時、サリーナは中に人の気配を感じて足を止めた。炊事場は土間になっていて、見張りの兵たちが出入りに使っている扉がある。誰かがいるとしても不思議はない。

 鉢合わせしたくないサリーナは手燭を足元に置いた。灯りを背負うように立つと、炊事場からも月明かりとは別の灯り──蝋燭か何かの光が漏れているのがわかった。

 光はしかし、すぐ消えた。扉の開閉は聞こえない。そこにいるのに、灯りだけ消した? 不審に思って、サリーナは足音を忍ばせて近づき、中を覗いた。

 炊事場は青白い月の光に満ちていた。月の見える窓に向かっている男。横顔はもう見慣れてしまった、ウゴのものだった。

 静かにゆっくりと、両膝を突く。額の前で指を組む。それが祈りを捧げる仕草であることは、信仰のないサリーナも知っていた。合掌の影が目元を隠し、固く結んだ唇の白さを引き立てる。静寂が降り積もるような一秒が大切に過ぎてゆく。サリーナは息を呑んだ。

 サリーナの目に映るウゴは、荒々しくぶっきらぼうで怖かった。必要なくなれば自分を殺すかもしれない相手なのだから無理はない。にも拘わらず今、見とれてしまっている。祈りが終わらないうちに部屋に戻らなければと思いながらも、目を逸らせずにいた。

「──見せ物じゃない」

 祈る姿勢のまま、ウゴが声を発した。サリーナに向けられているのは明らかだった。

「ごめんなさい、私……」

 咄嗟に返したサリーナは、壁から半分以上体が出ていたことに気づいた。恥ずかしくなって顔を背けるが、体は恐ろしさに反応してその場から動けない。

 近づいてくる足音に身をすくめる。月の光が遮られ、覆い被さるような位置にウゴの顔が来ているのがわかった。

「あんたは、運がいい」

 囁く声は意外なほど穏やかだった。恐る恐る顔を上げると、逆光の中でウゴは懐から何かを取り出した。指先が光る。

 鼻先に突き出されたそれは、内側に青い輝きを秘めた仄白い石だった。支えているのは美しい彫金の立派な指輪だ。これほどの代物はイヴェットの宝飾にもない。リオネルが結婚式の時にだけ嵌めていた、ラビュタン王家の証なら匹敵するか。

「王家の証……」

 サリーナの呟きはウゴに聞こえただろうか。彼は指輪を右手の親指に嵌めて言った。

「歴史が変わる時が来た。〝月満ちてチチェク輝けり〟だ」

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