胸騒ぎ

 芝の坂を下っていくと少年と少女のはしゃぐ声が徐々に大きく聞こえてくる。ロゼは摘まんでいたスカートを離し、歩幅を小さくして幼い主人たちを探した。

「見てて。もう一回!」

 ロイクは湖に向かって右腕を振りかぶっている。少し離れたところでシーファがそれを見つめていた。

「それっ!」

 放たれた石が湖面を跳ねていく。一回、二回、……三回目はならず、石は沈んだ。

「あーあ」

「でも、さっきよりは多かったわ」

 シーファが声を掛ける。ロイクは頭を掻いた。

「いつもは四回はいくんだ。おかしいなぁ」

「湖面が波立っているのではありませんか? 少し、風がありますから」

 ロゼはシーファの背後に到着した。

 館のほうでは気にならなかったが、湖まで降りてきてみれば、時折木々がざわめく程度に風が出てきている。

「場所を変えてみては? 風上側からならうまくいくかもしれませんわ」

 ロゼの提案に納得した様子で、ロイクは人差し指をなめて風にかざした。

「あっちだ!」

 レティシアたちのいる丘を背に、水際を回り込む。ロイクに続くシーファ。子供たちの姿はあっという間に遠のいた。

「遠くへ行ってはいけませんよ!」

 声を掛けても聞こえているかどうか。ロゼは再びスカートを摘んで、子供たちの後を追った。

 風向きに合わせて投げる方向を変えても、石は思うように跳ねなかった。風は強まり、足元には波が寄せては返す。

「今日はもうダメだ。波が出ると大人でも難しくなるもの」

 山なりに放り投げた一つを最後に、ロイクは湖に背を向けた。「天気が悪くなる。戻ろう」

「どうしてわかるの?」

 シーファの質問に、

「風は雨雲を連れてくるんだ」

 ロイクは空を指した。まだ晴れている空に木々のざわめきが渡っていく。

「今の時期だと南から。旧王都のほうはもう雨が降っているかも」

「天気のこと、詳しいのね」

 シーファの視線に気づくと、ロイクは照れた様子で顔を掻いた。

「空、好きだから」

「ご立派ですわ」

 ロゼは手巾を差し出した。ロイクは受け取ったそれで手を拭った。

「では行きましょうか。お茶会もそろそろお開きにしませんとね」

 ロゼが促すと、シーファは自分からロイクの腕に飛びついた。ロイクは一瞬驚いた様子で、しかしすぐに貴公子の顔になってシーファを伴う。

 連れ立つ幼い後ろ姿。ロゼにとっても孫のような世代の二人は微笑ましい。ただ、今は並んでいても、既に二人が違う世界の住人であることをロゼは知っていた。

 シーファには普通の令嬢の人生は歩めない。夏至祭で──いや、摘んできたマルリルを燃やしたあの日から、悲運の少女レアと重ねてしまう。

「ロゼ、どうかした?」

 シーファが振り返る。

「いえ、何も」

 ロゼは慌てて足を動かした。

 突風が吹いたのは数歩ほどの距離、ちょうど二人に追いついたところだった。轟音と共にひと塊の空気が湖側から吹きつけた。どこか冷ややかで厚さのある、見えない層が押し通っていく。飛ばされるほどではなくても、本能的に歩みを止めてやり過ごすべきだと子供にもわかる風圧だった。

「シーファ様!」

 反射的に目を瞑りながらも、ロゼはシーファの背に手を添えた。衣服が激しくはためく。シーファは体を強張らせている。ロイクは? ……しがみつくシーファを支えて足を踏ん張っている。子供たちに何かあってはと思うと、ロゼにはほんの数秒が恐ろしく長く感じられた。

 風が収まる。湖の上空には鳥の群れが旋回していた。

「お二人とも、ご無事ですか?」

 ロゼが声を掛けると、シーファとロイクは縮こめていた体を伸ばした。

「頭、ボサボサ!」

 ロイクがシーファをからかう。

「まあ! ロイク、あなただって」

 笑い合う二人に安心して、ロゼは簡単にシーファの髪と衣服を整えた。

「さ、早く行きましょう。これは、思ったより早く降ってきそうですわ」

「そうね。お母様に知らせなきゃ……」

「知らせる?」

 聞き返したロゼに、

「お父様だわ! お父様が、もうそこまで来ている!」

 シーファは瞳を輝かせた。


 クロードは剣を握りしめたまま森の中を走っていた。近隣の住人が使う程度なのだろう、切り拓かれた道幅は人が一人通行するので精いっぱいだ。

 裾の擦り切れた薄い外套がはためく。捨てた騎士服の代わりに、道中すれ違った行商にいくらかで譲ってもらった物だ。裂けた布地の隙間から、腰に揺れる空の鞘が覗く。

 マルリルと言葉を交わした後、モニックの街に部下を置いたまま、クロードは預けてきた愛馬とは別の馬を用立ててひっそりと旅立った。

 夜が訪れても上官が戻らなければ、部下たちは中央へ報告する。火竜姫連行は王太子ディディエ直々の命令だ。任務中に行方をくらましたとなれば、央軍の中だけでは片付けられない。ただちに追手がかかり、父や叔母も反逆意思を問われるだろう。

 それでもクロードは、マルリルをセルジャンに連れていくわけにはいかなかった。〝凍てつく夏至〟が本当なら、国同士で牽制しあっている場合ではない。何が起こるかわからないが、防げるなら防ぐ方法を、防げないなら避難や備えを講じなければ。

 しかし、騎士団長の身で訴えても任務失敗の言い訳だと思われるのが目に見えている。将軍からだとしても王太子にはおいそれと意見できまい。信用に足る根拠がなければ身内贔屓と侮られ、父の立場を悪くするだけだ。

 〝凍てつく夏至〟についての情報を集めつつ、アンブロワーズ王家と対等に会話できる後ろ盾を得たい。クロードはモンテガント公にその期待を寄せた。すでにシーファの件で借りを作っているのだ、もはやラヴァルに守るべき体面などなかった。

 モンテガントから火竜領──旧ラビュタン王家に取りなしてもらう。盟友の助言であればアンブロワーズは形だけでも耳を傾ける。

 ただ、本物の火竜姫がセルジャンに現れたという話はラビュタンにも伝わっているはずだ。名ばかりとはいえ偽物を領主として迎え入れさせたアンブロワーズに激怒している可能性はある。問題は山積み、ほとんど賭けだが、進むべき道は見えた。

 中央からの追跡を避けるため、モニックから数日は馬を跳ばして街道を進み、モンテガント領へ向かう分岐で森へ入った。馬は逆方面へ向かう旅人に譲り、せめてもの撹乱を図る。

 小細工をしたところで、クロードがモンテガントを恃みに行動するのは読まれているだろう。だが、今クロードが走っているのは、捜索の手が迫ってきたからではなかった。

 少しだけ道幅の開けたところで足を止め、振り返りざまに抜き身の片手剣で薙ぐ。飛びかかってきた狼型の胴体が二つに割れた。血は出ない。魔物だ。

 一度魔法で荒れた土地でも、年月をかけて元の自然を取り戻せば魔物の出現は減る。少なくとも昼日中に遭遇することはほとんどない。それが、クロードは森に入ってから半日で四、五匹は相手にしている。小物ばかりだが数が多い。

 夜間もできるだけ距離を稼ぐつもりで松明の用意はある。火を焚けば魔物は寄り付かない。昼間に使いたくなかったが、点けたほうが速く進めるか。思案しながら、クロードは胸騒ぎを覚えていた。〝凍てつく夏至〟の予兆はもう起こり始めているのではないか、と。

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