モンテガントの目論み

「こっちだよ! 早くおいで!」

 絹織りの上衣を着た少年がシーファを誘う。「待って!」光の中へ走り去る後ろ姿をシーファが追いかけていく。

 子供たちの笑い声が遠ざかっていくのを木陰で聞きながら、レティシアはモンテガント公と午後の茶を囲んでいた。

「チチェクがこんなに復興しているなんて、思ってもみませんでしたわ」

 目を細めて遠くを見やるレティシアに、モンテガント公グラシアン・サランジェは満足げに頷いた。

 湖のほとりに建てられた避暑用の小邸が、レティシアとシーファにあてがわれた住まいだった。庭園はないが湖まで切り拓かれた緩やかな下り坂は芝地に整えられ、一本植えられた枝張りの大きな木の下は晴れた日に外で休むのにちょうどいい。

 モンテガント領の西に隣接する旧チチェク国域。半島統一の際に焼野原となった土地は、十余年の月日を経て、街と自然を取り戻している。荒れていた頃は通商路も迂回していたが数年前には開通し、今では道沿いの街にも活気が戻っているという。

「拝領した頃は魔物がうろついて、とても近寄れる状態ではありませんでしたがね。もっとも、このあたりは旧チチェク王都から遠くて被害の少ないほうではあった。近隣の村にはチチェク人がそのまま暮らしている」

 モンテガント公は椅子にもたれて口髭をしごく。「過ぎてみればあっという間だ」

 そこに先ほどの少年が戻ってきて飛びついた。重心を椅子に預けていた老体はあっけなくひっくり返る。

「こらっ、ロイク! やんちゃも大概にしなさい」

 言葉ほど怒ったふうもない大貴族を、その孫ロイクは笑いながら助け起こした。

「お祖父様、舟を出して! ねえ、いいでしょう?」

 甘える様子はシーファとさして変わらない。歳は確か、八つと言ったか。レティシアは二人のやり取りを微笑ましく見守りながら、ロイクに続いて駆け戻ったシーファを抱き止めた。

「だめだよ、ロイク。元々私だけで来るはずのところにお前が無理やりついてきたのだ。もうじき帰り支度もせねば。また今度、父様たちと来た時になさい」

「……はーい」

 少年は祖父から体を離した。シーファの視線に気が付くとばつが悪そうに顔を背ける。初対面の女の子に良い格好をしてみせたかったのだろう。「舟に乗せてやる」などと言って。

 モンテガント公も察したのか、

「まだ少し時間がある。舟はだめだが、小さなレディを湖に案内して差し上げたらどうかな?」

 肩を叩かれるとロイクは面を輝かせた。

「うん! シーファ、行こう!」

「ロイク。お誘い申しあげる時はそうじゃないだろう?」

 祖父の声に、少年は走り出そうとしていた姿勢で止まる。

「そうだった! ……よろしければ、お手をどうぞ」

 背筋を伸ばして軽く肘を曲げ、微笑めば、幼いながらに立派な貴公子だ。恥ずかしそうに母を振り返るシーファにレティシアが頷くと、小さなレディは満面の笑みで貴公子の腕に掴まった。


 子供たちを見送ると、ロゼが新しい茶を運んできた。給仕を始めようとする彼女をレティシアが止める。

「ロゼ、あの子たちを見ておいてほしいの。ここは、私が」

「かしこまりました」

 モンテガント公に一礼して湖へ向かったロゼに代わり、レティシアは二つの器に茶を注いだ。

「それで、お話というのは──?」

 茶を供す仕草でモンテガント公を伺う。古くから半島の玄関を保守しアンブロワーズの繁栄に貢献してきたサランジェ家の現当主。クロードとの結婚後、レティシアもしばしば顔を合わせてはいるが、挨拶以上の言葉を交わすのは初めてだ。ましてや、夫不在で対面することなど。

 ロゼを見送るように遠くを見遣っていた彼は、緊張した様子のレティシアに笑みを返して、差し出された茶を一口飲んだ。

「突然来て驚かせてしまいましたかな。しかし、手紙や遣いで知らせては、いたずらに心配をおかけするだけだろうと思って参ったのです」

「はあ……」

 すでに不安気なレティシアに、今度はモンテガント公が茶を勧める。茶器を持ち上げて口を付け、テーブルに戻すまでの間を待って、彼はゆっくりと話し始めた。

「気を確かにお聞きいただきたい。ラヴァル家は、もうセルジャンへは戻れない」

「それは、もしかしたらと覚悟はしておりました。……改まってお越しになるほど、事態は悪くなってしまったのでしょうか」

「クロード殿が王太子殿下の命に背いて、行方知れずになったようだ」

「まあ……!」

 レティシアは両手で口元を覆った。王族に背く──妻として騎士団長を支えてきた身に言葉を失わせる衝撃だった。

「ラヴァル将軍と大魔導閣下は捕らえられたと。中央は今、クロード殿を探している」

 義父たちまで! レティシアは眩暈を覚えた。

「気を確かに。まだ何も、詳しいことはわかっていない。中央もまだクロード殿の足取りを掴めておらず、こちらには庇い立てするなとお達しがあっただけです。ただ、長引くようなら……クロード殿のほうから来ていただけるように、あなた方を王城へお連れせねばなりません」

 向けられた同情の眼差しは、他に拠り所がない状況をレティシアに思い出させた。生家からも嫁ぎ先からも遠く、情報を得るのさえままならぬ今、この老紳士だけがシーファとの生活を支えている。そして、彼は単なる親切でわざわざ足を運んでくるほど小物ではなかった。

「そこでひとつ、提案がありましてな」

 テーブルに肘を突いて、組んだ指に顎を乗せる。目尻の皺を深くして見つめてくる人物は親世代以前から貴族社会に生き、半島統一の戦いをも経験した実力者。中央との絆も強い。その彼が〝提案〟すると言うなら、レティシアに選択の余地はなかった。

「ご令嬢をサランジェ家の養女にいただきたい。帝国貴族へ輿入れするのです」

「シーファを!?」

 予想外の申し出にレティシアは声を上げた。モンテガント公は真顔で頷く。

「ラヴァルはおしまいだ。若様が何を考えているのかわからないが、ディディエ殿下の命令に背いたら不敬では済まされまい。反逆の意思ありと見なされれば、あなた方妻子にも累が及ぶ」

「そんな! わたくしたちは、何も……! それにあの人が国に背くなど、ありえませんわ!」

 ラヴァル家は代々将軍を輩出してきた。アンブロワーズ王家の信頼を裏切るはずがない。

「法のうえの話です。父君は央軍を動かせるお立場だ。そうでなくとも反逆の罪は重い。親族にも同刑が下される」

 視線を逸らし笑みを消した目元からは、多少なりとも本心からレティシア母子を憐れんでいる様子が見て取れた。同時に、懇ろに付き合ってきたサランジェ家への飛び火を厭う冷徹さを透かして。

 小さく茶器が鳴る音で自分が震えているのに気づいて、レティシアは持ち手から指を離した。

 モンテガント領は大陸に近接した交易街を有する。帝国への通商路を行き交うのは物と商人だけではない。情報や人脈もまた、税収と等しくサランジェ家に集まる利得であった。

「ボブロフの社交界にはアンブロワーズとの結びつきを求める動きがある。あなたもご存じの通り、婚姻は有効な手段だ」

 シーファをサランジェ家の令嬢として有力貴族と婚約させる。モンテガントは帝国社交界にも血縁を得て、さらに力をつける。仮にクロードが反逆罪と断じられても、アンブロワーズは迂闊に手を出せなくなる──。

「これは前々から考えていたことなのです。火竜姫様のお子を、……というのは断られてしまいましたが、結果としては良かった」

「火竜姫」。その響きに、レティシアは息を呑んだ。

「ご懐妊のレア殿は本物の火竜姫ではなかったと。現れた本物は無法者に成り下がり、今やアンブロワーズの脅威。火竜姫並みの力を秘めたシーファ嬢援助のお話を大魔導閣下から頂いた時は、追い風が吹いてきたと思ったものです」

 一口茶を啜ったモンテガント公の視線がレティシアに戻ってきた。

「悪い話ではないはずだ。シーファ嬢はまだ七歳。あちらの文化に馴染むなら早いほうが良い。行儀見習いにかこつけて、あなた共々送り出して差し上げることは難しくはない」

「大変有り難いお話だとは思います。ですが、そのような……わたくし一人ではとても決められませんわ。少し、考える時間を……」

「それはできない」

 モンテガント公は首を振った。「実は、中央からはすでにあなた方を引き渡すよう言われていたのですよ」

 クロードをセルジャンへ戻らせる切り札として。

「だが私は断った。レティシアとシーファはもうラヴァル家の者ではないと言ってね。今はまだ嘘だが、あなたにはそれを事実にしてもらう必要がある。どのような手を使ってもシーファを守ってほしい、それがプルデンス嬢たっての頼みなのです」

「叔母上様が……」

 それ以上の言葉は出てこなかった。モンテガント公に返す視線に力を込めてレティシアは頷いた。もう震えは止まっていた。

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