散りゆく夏

 リオネルは一睡もできないまま朝を迎えた。国境の山脈に陣取る一団は帝国軍に間違いないとの情報で砦への派兵を段取ることにしたが、領主火竜公不在では如何に妊娠中とはいえ格好がつかない。号令はレア名義でまずは千、六日の距離を急がせる。

 一方で大々的にレア探しはできなくなった。サリーナと二人、遠くまで行ける手段はないはずと期待して、城下に数名の聞き込み人員を密かに配置するにとどめた。収穫は、まだ、ない。

 一つわかったことがあるとすれば、レアが姿を消した理由だ。

 不審な陣営の調査や中央との連絡で情報が行き交う中、王都に火竜姫が現れたという話が聞こえてきた。夏至祭で華麗に火の鳥を舞わせて火事を鎮めたとかいう、俄には信じ難い噂である。

 火竜姫なら隣にいた。王都に現れたのは偽物だ──昨日までのリオネルなら、迷わずそう答えただろう。しかし今、問い質そうにもレアはいない。自ら行方を消したのだとしたら、それが全てを物語っている。

 所領を取り上げ火竜姫に与えるとしたのはアンブロワーズだ。ラビュタンは魔法の力と威光を血縁に取り込むのと引き換えに容認し、アンブロワーズへの忠誠を示した。

 その肝心のレアが偽物では、送り込んできたアンブロワーズへの信頼は揺らぐ。小国とはいえラビュタンは王家。最後の王であるリオネルの父の耳に入れば、隠居先から乗り込んできて兵をセルジャンへ差し向ける。リオネルとて、有事でなければアンブロワーズに直接説明を請いたい気持ちだ。話を聞いた瞬間にレアがいないのは良かったかもしれない。いれば、取り乱す無様な自分を晒していたに違いなかった。

 今はとにかく、怪しい陣営への対処だ。二千程度なら蹴散らすのは難しくない。砦にいるのは王政時代からこの地を守る精鋭たちだ。援軍到着までは十分持ち堪える。

 ただ、一度退けるだけでは終わらないのはリオネルにもわかっていた。勝っても負けても、この戦いをきっかけに帝国がなだれ込んでくる。アンブロワーズと揉めている場合ではない。砦で時間を稼ぐうちに中央と連携しなければ……。

 身支度を終え、朝の茶を部屋に運ばせる。朝の光を浴びながら茶を淹れるレアの笑顔がちらついた。彼女はレアではなかった。何を思いながら別人を演じていたのか。夫婦の愛は偽りだったのか。メイドの淹れた茶は味もせず喉を落ちていく。

 ただの男だったら。詮無いと思っても考えずにはいられない。すべてを投げ出して今すぐ探しに行くのに。

 リオネルが差し出した手を、戸惑いながらも握り返したあの時の、レアの瞳はいつか来るこの日を見据えていたのだ。

 リオネル個人ならいい。百歩譲って一貴族であれば、まだ。しかしラビュタンは王族だ。かつての国民の手前、アンブロワーズにしてやられたままというわけにいかない。兵力を割けない今、偽物の首を送りつけるくらいせねば、ラビュタン王のもとにこの辺境を守り抜いた誇り高き老兵世代は納得しないだろう。

 無事であってほしい。だが、帰ってきた時は──。

 リオネルはテーブルの上を腕で薙ぎ払った。茶器が砕け、冷めきった茶が飛び散る。物音に駆けつけたメイドは、茶器の破片を拾いながらリオネルの顔色を伺った。主人は、今までに見たことのないほど険しい目つきで、口元には薄い笑いを浮かべていた。


 モニックの街はずれの丘を傾きかけた陽が照らす。見下ろす街並みにはちらほらと夕食を煮炊きする煙が立ち始めた。草いきれに混じって微かに、終わりかけのマルリルの花が香る。

 騎士服の下にじっとりと汗をかきながら、クロードは丘を登っていた。落ちた白い花びらが道案内でもするように頂上へと続いている。荷物は腰で揺れる片手剣一本、他には何もない。

 宿屋の主人から、目的の女は毎日この丘で時間を潰していると聞いてやってきた。馬と部下たちを衛兵の詰所に置いて、クロード一人で向かっている。

 丘の上、まばらな木立の影に、佇む後ろ姿がひとつ見えた。フードに外套、襟巻き。季節外れの旅装には覚えがある。その人物は、クロードの接近を承知だろうに、身動きひとつしなかった。

 十分な間合いを残してクロードは立ち止まる。何と声を掛けるかは決めてあった。

「レア」

 その声に振り返るのは、かつての少女ではない。

「もうレアではないと言っただろう」

 下げた襟巻きから笑みを覗かせて女は、伏せていた目をクロードに向けた。体ごと向き直るが、自分から寄ってくる素振りは見せない。

「お前は、お前だ」

 クロードはゆっくりと女に向かって歩き出す。女の足元から伸びる影は、再び襟巻きに顔を埋めて俯く。

 燃え盛る炎の熱さ、川の水の冷たさ、傷口から全身に広がる痛み、温かく柔らかい感触、ほのかに甘い──血のにおい。

 一瞬だが、鮮明に。

 蘇った感覚にクロードは眩暈を覚えて足を止める。女はもう、すぐそこにいる。

「本当に、あのレアなのか?」

 クロードは無意識に女のフードに手を伸ばしていた。顔を上げた女の艶やかな瞳がくるりとクロードを捉える。

 折からの風がクロードの指先からフードを奪った。帆のように膨らんで落ちた布から髪が現れ、風になびく。

「……だから、レアと呼ぶのはよせと言ってる」

 女は散らかる髪を押さえながらクロードを見上げた。

 また強く、風が吹く。無数の白い花びらがクロードの視界を横切って空に巻き上げられていく。その向こうには、軽口にむくれる少女の面影があった。


 長い影がふたつ、草地の上に落ちている。夏の陽は沈む寸前でも金色で、向かい合うふたりを平等に照らす。意思を持たぬ草木や石とも同じように。

「そろそろ来る頃だと思っていた」

 女は──レアは、いや、マルリルは言った。「一人か? ……そんなわけないか」

「街に部下を待たせている」

 行き場のなくなった手で頬を掻きながらクロードは答えた。マルリルが襟巻きを引き上げるのに気づいて、慌てて目を逸らす。

「お前こそ、一緒にいた大男はどうした?」

「あの人は忙しいから」

「お前の……その、連れ合いなのか?」

 言い淀んだクロードに、マルリルは笑う。

「そう思いたいだけだろう?」

 聞き返されて、クロードは黙る。

 マルリルは足元から木切れを二つ拾って、一つをクロードに渡した。

「剣の稽古をしよう。昔、少し教えてくれただろ」

 言うか、さっと後退って構える。クロードが呆気に取られているところに腰の入った突きが繰り出され、クロードは反射的に木切れでいなした。

「いきなりは卑怯だぞ」

「でも対応できる。さすがだな」

 マルリルはさらに打ち込んでくる。力では勝てないクロードの〝剣〟をまともに受けることはしない。しなやかな動きで躱し、外套を翻して間合いを撹乱する。

「ちょっと待て」

 クロードは腰の片手剣を外し、騎士服を脱ぎ捨てた。

「お前がそこまで使えるとはな。ここからは手加減なしだ。来い!」

 構え直すクロードに、マルリルは自分の〝剣〟を向けた。


 西の空が赤みを増した頃、疲れたマルリルが木切れを放り出した。草地の上に足を投げ出して座る様子は、ラヴァル家に連れて来られたばかりの当時を思い出させる。あの頃はクロードもまだ大人と呼べる歳ではなかった。

 少し離れてクロードも腰を下ろした。衣服は絞れるほど汗で湿っていた。

「お前は暑くないのか」

 言いながら、クロードは騎士服を羽織った。マルリルも額に髪が張り付いている。それでもまだ外套と襟巻きに包まっていた。

「少し風を入れろ。熱が篭ったままなのは体に悪い」

 クロードは座ったままマルリルに背を向けた。

 一呼吸した後に、背中に柔らかな感触がのしかかった。マルリルが体を預けてきたのだった。

「私を、捕まえに来たんだろう?」

 囁きが、背後からの風に乗って聞こえてくる。「アンブロワーズに突き出すのか」

「……そうだ」

「従わなければ?」

「殺せ、と言われている」

 背中は黙った。

「俺がやらなければ、別の誰かが命ぜられるだけだ。叔母上が先に会いたいと言っている。望みを掛けるなら、そこしかない」

 顔が見えないせいか、クロードの舌はよく回った。十年後の再会でこんな話しかできないなら、ずっと木切れで手合わせを続けていたほうがいいと思いながら。

「クロード、こっちを見て」

 マルリルはクロードの肩に手を置いた。振り返るとマルリルは襟巻きを外していた。寛げた外套の首元から、鱗に覆われた鎖骨が覗いていた。

「お前、それは──」

 初めて見る光景にクロードは言葉を失う。

「年々増えていってる。今年は特に早い」

 マルリルは襟巻きを巻き直した。「もう来年だからな、〝凍てつく夏至〟は」

「凍てつく夏至?」

「半島も含めたこの大陸の穢れを燃やし尽くして、永遠の冬が訪れる」

「何の話だ?」

「使命だよ。この力と、鱗と、流れる血と。すべては、凍てつく夏至のために用意された生贄だ」

 マルリルは短く息を吐く。「私はもうじき、人ではなくなる」

「……お前は、お前だ」

「それは最初に聞いた」

 笑って、白々しさに自分でも気づいたのか、マルリルは目を伏せて襟巻きに潜った。

「この十年で色々掴んだけど、まだわからないこともある。私は、まだ死ねない。アンブロワーズに構っている時間もないんだ」

 最初から決まっていた彼女の運命の、ほんの寄り道でしかなかった。この国も、ラヴァル家も、クロードとの出会いも。

 あの時守ってやれれば、追いかけていればと悔やんでいた。だが、それはクロードの思い上がりだった。彼女はもっと大きな流れの中で、一介の騎士の手の届かないところに生きている。今、すぐ隣でちんまりと俯いていても。

「ごめん。また迷惑をかける。でも、もう行かなきゃ」

「レア……」

「マルリルだ」

 むくれて顔を上げる彼女は、かつての少女ではない。

「マルリル」

 クロードはそっと彼女に指を伸ばした。髪についた花びらを摘んで風の中に送り出す。

「生きろよ」


 クロードがモニックへと発って二日。プルデンスは自邸の庭のあずま屋にいた。朝のまだ涼しい時間帯、石造りのテーブルは冷たく、書物を広げるには適している。

 風がページをめくるのを、プルデンスはぼんやりと眺めていた。ぱらぱらと巻き戻った見開きに、花びらが一枚、舞い降りる。

「早いものだ。もう、季節が移る」

 払い落とそうとしてその手を止める。庭の入り口に来訪者の気配を感じ、貴婦人は花びらをページの中央に置き直して本を閉じた。

 案内もつけずにあずま屋まで乗り込んできたのは右軍のベロニド将軍だった。

「これはベロニド卿。ご機嫌麗しゅう」

 プルデンスは立ち上がり、その場で膝を折って挨拶した。「ご連絡いただけましたらお出迎えにあがりましたのに」

「聡明なる大魔導プルデンス。無駄に抵抗などしてくれるなよ」

 あずま屋からの道を塞ぐようにベロニドが立ちはだかった。遅れて数名が庭に駆け込んでくる。すでに屋敷は包囲されているだろう。

「王太子の密命を果たさずクロード・ラヴァルが行方をくらました。央軍幹部にも反逆の疑いが掛けられておる」

「直々にお越しとは、痛み入ります。兄上のほうにはブリエンヌ卿が向かわれているのですかな?」

 扇を広げて口元を隠すプルデンスに、ベロニドは鼻白む。

「ふん、少しは動じるところを拝めるかと思ったがな。今ははぐらかされておいてやろう。話は後で存分に聞く」

 ベロニドの合図で、若い騎士がプルデンスの両脇に回る。プルデンスは優雅な手つきでそれを拒み、あずま屋を出た。

「わたくしなぞに構っておられるとは、右軍……もとい、アンブロワーズ王家もまだまだ余裕があると見える」

「なに?」

 聞き返すベロニドに、プルデンスは扇を畳んだ。

「クロードが姿を消したのであれば、レアの説得は失敗したということでしょう。火竜の炎が味方につかないのであれば、早急に策を練らねばならぬところ。今、帝国に攻められでもしたら、ひとたまりもありませんな」

「貴殿……何を知っている」

 ベロニドはプルデンスを睨んだ。

「何も」

 涼しい顔でプルデンスは答える。「可能性の話をしたまで」

「元はといえばラヴァル家が火竜姫を死んだと偽ったせいだろう。夏至祭での件も含め、すべての発端……この罪は重い!」

 ベロニドは腰の剣に手を掛けた。

「おや、早計な。まだわたくしは裁かれておりません。今この場で狼藉を働くのであれば、主人あるじとしてもてなし方を考えねば」

 プルデンスは右手の五本の指にそれぞれ火を灯してみせる。ベロニドはゆっくりと剣から外した手を自分の腹で拭って黙った。

「お忘れのようですね」

 五つの火は長く伸び上がり螺旋を描く。宙で結んで花になったそれをふっと吹き消し、プルデンスは笑った。

「火竜姫を亡き者にして、帝国の仕業に見せかけるという十年前の左右軍の思いつき、失敗の尻拭いをしたのは央軍だった」

「古い話を……同時に帝国からも襲撃させ有耶無耶にしたのは、チチェクの魔導士を飼い慣らした貴殿の差し金と言われていたではないか」

「そう思われるならば、飼い主を不在にするのは上手くないのではありませぬか」

「口の減らない女よ」

 吐き捨てるベロニドに、貴婦人は静かな微笑みを返す。

「では、参りましょうか」

 プルデンスに促され、ベロニドは歩き出す。騎士が両脇につくのを、プルデンスはもう拒まなかった。高くなってきた夏の陽射しを受けて庭が輝く。ある花が散れば、また別の花が盛りを迎える。

 クロード、可愛い甥よ。それでいい。すべては、これからだ──。

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