第三章 歴史が変わる時

粉屋の二階

 シェブルーの粉屋の二階でイヴェットは出奔後初めての夜を迎えた。並べた粉袋が寝床だと言われてサリーナは愕然としていたが、捜索の手が回ることを考えると宿屋には泊まれないのだから仕方ない。

 たったひとつの部屋は倉庫になっていて、二階だが裏手に直接上がれる口があるのは良かった。店が閉まるのを待たなくても家主に顔を見られず中に入ることができた。

「閉店したからもう誰も来ない。店への粉袋の補充があるから朝は早い」

 イヴェットたちを救った青年はウゴと名乗った。「夜明け前に起こしに来るからそのつもりでいてくれ」

「あなたはここで働いているの?」

「半分は用心棒として雇われてる」

 ウゴは、普段は自分が寝る時に使っているだろう毛織を粉袋に掛けて、イヴェットとサリーナに勧めた。イヴェットはサリーナに支えられてゆっくり腰を下ろす。

 裏手口の戸がノックされ、ウゴが灯りを戸のほうに向けた。三回、二回と打ち分けた音を確認して錠を開ける。

「古着と食べる物を買ってきました」

 入って来た男はラウルというらしい。ウゴより年嵩がいっていそうに見えるが、パンを差し出してくる腕はウゴ以上に太く締まっている。この人も用心棒稼業なのだろうか。イヴェットは受け取ったパンを二つに割って片方をサリーナに渡した。

「食べながら話そう」

 床に腰を下ろすウゴに続いてラウルも座る。彼らがパンを分け合って齧り始めたので、イヴェットはサリーナに目配せして自分の分をちぎって口へ運んだ。水分が少なく固いが、噛むたびにしみ出るような味わいがある。

 無法者から助けてもらった時、ウゴはイヴェットを「にせの火竜姫」と断じた。しらを切り通せばいいものをそうしなかったのは、当てずっぽうで言っているとは思えなかったからだ。

 リオネルが代理に立つことが多かったとはいえ、領主として公の前に出たことはある。イヴェットの顔を記憶していたとしても不思議はない。だが限られた者しか知らないはずの「にせ」の事実を知っている。

 だからといって責めるでもなく、城へ追い返すでもなく、ウゴはイヴェットとサリーナをここまで連れてきた。

「訳を教えてくれないか」

 ウゴは三口ほどでパンを食べ終えていた。まだ鳥がつついた程度のパンを両手で包み、イヴェットは考える。どこまで話すべきか。

「どうした? ただの夫婦喧嘩なら帰ってもらうぜ」

 水の入った瓶を寄越してウゴは催促する。イヴェットはそれを一口飲んで、瓶を預けようとサリーナを見た。そしてはっとした。受け取る手は震えて、膝の上のパンはまだ少しも減っていなかった。

 彼女も国の都合で人生を狂わされた一人だ。私はさらに自分の都合に巻き込んでしまっている──。

 イヴェットはお腹をひと撫でして呼吸を整えた。

「セルジャンに本物が現れたとの知らせがあったのです」

 自分が偽物だったことが明るみに出るのは時間の問題。そうなれば旧ラビュタン王家を騙した罪で処刑される。中央が味方してくれるとは思えない。

「この子を産んだ後でなら、どんな咎でも受けましょう。でも、それまでは死ぬわけにはいかない」

 イヴェットの話をウゴとラウルは黙って聞いていた。

「サリーナは、明日城へ帰します。もしお願いできるなら、迷惑ついでに送り届けていただけないでしょうか」

「レア様!」

 サリーナが腰を浮かし、パンが床に転がり落ちた。それをウゴが拾い上げる。

「あんたはどうする」

「自分のことはなんとかします」

 意志を込めたイヴェットの視線を、ウゴは片膝を立てた姿勢で受け止めた。

 ひと呼吸分の沈黙が流れた。イヴェットはその間、瞬きもせずウゴの目を見ていた。

「マルリル、か……」

 不意にウゴの表情が緩む。「懐かしいな」

「本当に」

 ラウルが頷いた。「マルリル」を花の名前でしか知らないイヴェットは、サリーナと顔を見合わせる。

「早く食えよ」

 ウゴは拾ったパンを咥えて布袋を漁った。取り出した小さな袋をサリーナに渡す。中身は干した果肉と木の実だった。イヴェットは自分のパンを半分サリーナに、袋から木の実と果肉をひとつまみ取った。

「しかし困ったことになった」

 ラウルは顎を掻きながら言った。「街中に衛兵が増えていました」

「火竜姫を捜しているんだろ」

 ウゴの返事にラウルは首を振る。

「人探しにしては物々しい。どうも、スティナ山脈のほうの砦に援軍を出すようです」

「ついにお出まし、か。そうなると、あんた──」

 ウゴの目がイヴェットに向く。

「私のことは、〝イヴェット〟と。……サリーナも、これからはそう呼んでね」

 イヴェットが微笑むとサリーナは頷いた。

「イヴェットは俺たちと一緒に来てもらうことになる」

「なぜ?」

 イヴェットの表情が固まる。

「元々拐うつもりだったからさ」

 ウゴはサリーナから戻ってきた袋から木の実を取って口に放り込んだ。

「なんですって?」

「ウゴ」

 イヴェットの驚嘆にラウルの静かな声が重なる。

「いいだろ、もう」

 ウゴは木の実を噛み砕きながら、後ろの壁に寄りかかった。灯りから遠のいた顔に影が差す。

 ラウルはため息まじりに話し始めた。

「私たちがここに来たのは半年ほど前です。まだ冬で、あなたにはまだ妊娠の兆候がなかった」

 火竜公を行方不明にし、帝国の街を焼く。その後で付近で火竜公の身柄を、火竜軍を装った〝物言わぬ〟兵士たちと共に拘束したことにすれば、自作自演は完結だ。十分に帝国からオクタヴィアンへ攻め入る口実となる。

「では、あなたたちは帝国軍?」

「そうだ」

 イヴェットの問いにはウゴが答えた。「動じないんだな」

「ただ腕が立つだけの人ではないと思ってはいました」

 イヴェットは隣で震えるサリーナの手を握って言った。

「帝国側から戦争を仕掛けるのに口実なんて要らないでしょう。私が邪魔なら暗殺でもいいのに、なぜそんな回りくどいことを」

「そう簡単にいかないのが国同士の付き合いさ」

 半島オクタヴィアンが大陸ボブロフを長いこと牽制し続けてこられたのは火竜公レアの存在あってこそだ。チチェクでの実績を〝千里を薙ぐ〟の謳い文句で威力を過大に広め、しかしそれを積極的には見せないことで、大国との均衡を保っていた。表面上は。

「でも帝国は最初から知っていたんだ。火竜領にいるレアは偽物だってことを」

 十年前の事件で本物は死んだ。中央もそれを信じていたから、別人をレアに仕立て上げて何もなかったことにする道を選んだ。ところが。

「レアは帝国の手に渡っていた。俺たちがやったんだ。うまくいったおかげで、人攫いが得意みたいに思われて、また命令されることになったが」

「そんな……」

 イヴェットの声が震えた。サリーナがイヴェットの手を握り返す。

 両親に会うことも、王都へ戻ることもできなくなって、ひたすらレアを演じた。すべてが暴かれる日に怯えながら……。帝国は知っていてオクタヴィアンに話を合わせていたというのか。

「この十年はなんだったの……」

「無意味ではありません」

 ラウルははっきりと言った。

「帝国にとっても都合が良かったのです。本物が手の内にあることを隠したかった。彼女はマルリルと名を変えて帝国要人の管理下に入りました。その後のことは、我々も知らない。今はこの国にとっても帝国にとっても、あなたが火竜姫レアなのです」

 噛んで含めるようなラウルの言葉に、イヴェットは沈黙した。ウゴが二つ三つと口に入れ噛み砕く木の実の音がいやに響いた。ラウルが話を続ける。

「火竜姫妊娠で、帝国は仕掛けられたふりを工作する必要がなくなった。作戦変更で、私とウゴは城下に潜んでいた、というわけです」

 こんな近くに帝国兵が! ──イヴェットに、恐怖が初めて実感を伴って押し寄せた。

 あの薄氷を踏むような日々でさえ、夫に、ラビュタン家に、仕える兵士たちに守られていたのだ。千里を薙ぐ力の持ち主でないと彼らが知ったら。リオネルの顔が失望に歪むのだけは見たくない。それが処刑よりも恐ろしい。

「イヴェット様……」

 サリーナの心配そうな顔。気づくとイヴェットはサリーナの手を離し自分の腕を掻き抱いていた。呼吸が乱れていて息苦しい。

「大丈夫よ」

 しっかり発音できている。大丈夫。イヴェットは体の力を抜いてゆっくり息を吸った。

「それで、帝国は今何をしようとしているの? 砦へ派兵って、まさか」

「山脈を越えて帝国様のお出ましだ」

 ウゴは壁から背を離して脚を胡座に組み替えた。灯りを引き寄せて自分の前の床を照らす。一息、粉と埃を吹き飛ばすと小さな円形の舞台ができた。

「これがシェブルー、こっちがスティナの砦」

 少し離して二つ、水瓶の栓を立てる。

「帝国から二千」

 木の実を一つ、スティナに見立てたほうへ置く。

「対して、火竜軍は一万」

 干し果肉を五つ、シェブルーに。

「砦で食い止めたいからケチらないだろう。数で圧倒するはず。三千か四千は送るか……」

果肉を二つスティナへ動かす。

「地の利もある。楽勝だ」

 ウゴはスティナの〝帝国軍二千〟の実を拾って口に入れた。「でも──」

 ウゴは新しく木の実を並べた。一、二、三……、「すぐに増援が来る」

 木の実の後ろに果肉を、一、二、三。

「最初の二千は捨て駒だ。退ければ報復の口実になる」

 砦の二つ、シェブルーの三つの果肉を取り払う。砦側から帝国勢の木の実と果肉を押し出して順に栓を倒していった。

「帝国は内部の紛争で国外侵攻どころではないと聞いているわ。それに中央からも応援が来る」

 イヴェットは粉袋から降りて床に膝を突き、シェブルーの栓を立て直した。即席の戦略盤越しにウゴを睨みつける。

「残念だが援軍は来ない」

「根拠は?」

「本物がセルジャンに現れたんだろ? なら、兵力を王都の守りから減らせない。今さらマルリルがアンブロワーズに忠誠を誓うとは思えないしな」

 ウゴは盤上から木の実だけを摘んで食べた。イヴェットは、拾い上げた栓を固く握りしめていた。

「いずれにしても近いうち戦いが始まる。イヴェット、あなたはこのまま姿をくらましてしまったほうがいい」

 ラウルが取り残された果肉を袋に戻しながら言った。「火竜姫の秘密はじきに露呈します」

「それであなたたちに、帝国についていけと?」

「帝国……ね」

 ラウルは目を伏せてふっと短く息を吐いた。袋の紐を絞ってウゴに投げる。ウゴは飛んできた袋をろくに見もせず受け取った。

「どうします、ウゴ」

 訪ねるラウルにはウゴの考えが読めているようだ。

「月満ちて花輝けり、か。俺はあの歌は好きじゃないんだ」

 そう言ってウゴは投げ出した脚を引きつけ、すぐ立てる姿勢になった。

「月は花の引き立て役じゃない。尖っていたって綺麗だ」

 懐に手を入れる仕草は、イヴェットには武器を取り出すように見えた。思わず身構えるほど、ウゴの目にはさっきまでとは違う鋭さが宿っていた。抜くのはナイフか?

「あの!」

 一瞬の緊迫を解いたのは、サリーナだ。ウゴは面食らった様子で動きを止めた。イヴェットとラウルもサリーナに注目する。

「あの……もう遅いので、お話の続きは明日にしませんか?」

 サリーナは震える声で続けた。「イヴェット様とお子様にお休みいただかないと……」

 ウゴとラウルの視線がイヴェットへ向く。イヴェットは床にへたり込んだ格好で二人の視線を受け止めた。

「──こりゃ失礼」

 ウゴは胡座に座り直して頭を掻いた。懐から出した手には何も持っていなかった。

「そうですね、込み入った話は明日、場所を変えてから、改めて」

 ウゴの目配せを受けてラウルは買い出しの袋から古着を出してサリーナに渡した。

「今の季節はこんなものでも掛けて寝るには十分でしょう。街に出る時は羽織れば荷物にもならないし、その召し物よりは大衆に紛れられる」

「明日の朝、店が開く前にずらかる。悪いが火竜姫さんはもうしばらく付き合ってくれ」

 ウゴは立ち上がると鍵束の輪に指を通して回しながら、片手で器用に手荷物をまとめて出入り口に向かっていく。

 ウゴの塒といっても、ここは倉庫だ。外からも錠をかけられる。イヴェットは、この時やっと自分の甘さに気づいた。目的はまだわからないが、選ぶのは彼らであり、イヴェットたちは朝彼らがここを開けるまでは留まる以外に道はない。

「待って!」

 思わず呼び止めていた。「サリーナは、明日の朝解放されるわね?」

 ウゴは振り返らない。扉に手を掛けて止まっている。

「送ってやるほどの余裕はない」

 開いた扉から吹き込む夜風と共に、ウゴの呟きが返ってきた。

 サリーナ一人で城まで帰れるか? 早朝なら暴漢に遭遇しにくいのか。……しかし無事城へ着いたとして、これから帝国との戦いが始まるかもしれない。いや、その前に偽物と共に送られてきた者としての責めを受けるかも──。

 様々な考えがイヴェットの頭を駆け巡った。その間にウゴの後ろ姿は部屋の外へ、扉は閉じようとしていた。

「待ってください!」

 サリーナが駆け寄り、扉を掴む。再び広がった隙間からウゴが首だけを戻した。

「手を挟みたくなかったら離しな。あんたには用はない、なんなら今出てってもいい」

「私も、連れて行ってください」

 サリーナは両手で扉につかまったままウゴを見上げる。腕組みしたウゴは肩で扉を押した。体半分が部屋の中に入る。その勢いでサリーナは後ろによろけた。イヴェットには彼女の真意がわからない。床に座っていてすぐに立ち上がれないこともあり、見守るしかできなかった。

「悪いが決めるのは俺たちだ」

 ウゴはサリーナに詰め寄った。「お荷物は要らない」

「小間使いでも、なんでもします! イヴェット様はこれからが大変なのです!」

 サリーナは、イヴェットの世話のためについていくと言いたいようだ。イヴェットは胸を締め付けられる思いで彼女を見つめた。

 この先、どんな扱いを受けるかわからない。サリーナを巻き込みたくはないが、一緒にいてくれるだけでも心強い。それに、火竜領の今の状況では、一人で置いていくよりはいいかもしれない。

「私からもお願いします」

 イヴェットは居住まいを正してウゴに言った。

「イヴェット様……」

 サリーナもイヴェットの横に座ってウゴに目を合わせる。二人分の懇願の眼差しに、ウゴは舌打ちした。

「好きにしな。来るなら自分の食う分くらいは働いてもらうぜ」

 ウゴは二人に背を向けた。「話は終わりだ」

 扉が閉まり、錠をかける音がして、階段を降りる足音が遠ざかっていく。静けさが訪れるとサリーナは泣き出した。イヴェットはその背をさすりながら、リオネルのことを考えていた。

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