帝国西支部ザカットの砦

 馬車の揺れで私は目を覚ました。幌の中は明るい。向かい側には、荷台のへりに体を預けてあぐらを掻いているカカ。眠っているようだ。ウゴはいない。馬を御しているラウルについているのだろう。手首に巻かれた鎖が揺れのたびに小さく鳴っている。

 ウリズリネから逃げ切り、旅路も「あと少し」と聞いて、私はほっとしていた。何日も一緒にいて、私を拉致した男たちに奇妙な仲間意識のような感覚が芽生えてきた気もしていたが、ドニの街でカカと話したことは、ラウルとウゴには話していない。

 ボブロフ大陸を席巻した帝国は領土を東西南北に分け、支部を置いた。私たちが今向かっているのは西の支部・ザカットだ。

「支部といっても砦に騎士団が詰めているだけですがね」

 私の手を束ねる時、ラウルが言っていた。「それでも帝国の直轄で、指揮は皇帝陛下の御子息の一人ですから」

 形は必要なのでと、当て布の上から丁寧に鎖を巻き付けた。

 手前の村で馬車を用立てて未明に出発、朝一番で砦の門を叩く。すでに夜は明けている。そろそろ到着する頃合いだ。

 結局、ボブロフに入ってからカカと二人で話す機会はなかった。馬車で出発した時はウゴが荷台にいて、カカは言葉を発するどころか目配せすらしてこなかった。

 ウゴがいない今、これが最後かもしれない。でも、ゆっくり話している時間もない。その前に私自身、まだ心を決めかねていた。帝国相手に母親の救出。全く想像がつかない。協力者に当てでもあるのか……? 考えているとカカと視線がぶつかった。

「決めたか?」そう問われた気がして、私は首を振った。カカは座ったまま私の隣まで移動してきた。

「この先が、ひとつの山だ」

 捕らえた火竜姫をどう扱うのか。詳しくはカカも知らないという。処遇によっては帝国本部まで辿り着けない場合がある。かといってここで面倒事を起こすと、カカの母に危険が及ぶ。まだしばらくは従順にしておかなければならない。二人で協力するなら慎重に計画を練りたいが時間はなく、私はまだ迷っている。

「だから、言い方を変える」

 カカは一本立てた人差し指を私の鼻に押しつけた。

「母のついでにお前も助けてやる。だから、余計なことはするな」

 指先から伝わってくる熱と脈動。触れる皮膚の向こうに、血と肉以外の力が流れているのを感じる。

 どくん、呼応するように私の心臓が脈打つ。鱗が逆立ち、産毛の先まで神経が走ったような感覚が閃いた。

「助けて……」

 口をついて出た言葉に私は自分で驚いていた。

 助かりたい。助けてほしい。ああ、本当はずっとそう望んでいたんだ。いよいよこの身がどうなるかという今この時も。

 カカに、私の反応はどう映ったのか。私を拉致した張本人は指を引っ込めながら二、三度瞬きをして、

「任せろ」

 私の手首の鎖を指で弾いて少し笑った、気がした。


 カカと言葉を交わして間もなく、ザカットの砦に着いた。中に入る前に馬車から降ろされる。門壁の上には数名の弓兵がこちらを伺っていた。地上には門番だけとは思えない数の兵士が剣を抜いて待機していて、私の一挙一動を見つめている。事前に連絡を受けての歓迎だろう。千里をなんとかの謳い文句を信じているなら、警戒するのは当然かもしれない。

 兵士の一人が私に剣を突きつけ、別の一人が私の前に立つ。鎖が抜けないように絡みついていることを確認すると、さらにもう一人がついて、私の袖を捲り上げた。冷たい風が鱗を撫でていく。

「本物だ」

 一瞬で張り詰めた空気に、先程まで注がれていた視線が好奇心混じりだったのに気づく。彼らは、噂の火竜姫がこんな小娘でどう思ったか。少なくとも、怪しい動きを見せれば即排除するつもりであることはわかった。

 検分が済んで、番兵に案内されるままラウルが私の鎖を引く。ウゴと挟まれる形で奥へと通された。カカはさらにその後ろを歩いてくる。

 貴族の屋敷のように庭園はなく、門から左手に馬車ごと通れる幅の石畳が緩やかな上り坂で砦の二階か三階部分まで回り込んでいる。攻めてくる敵を誘導して上から射掛けるための造りだ。だが私たちは反対方向の、外壁の一階に穿たれた通用口を指示された。待っていた騎士が先導を替わる。

 細い通路はすれ違うのがやっとの幅。石畳を登る敵の背後を襲う、魔導士の吐き出し口だ。私も配置されたことがある。ここにも魔導士がいるのだろうか。

 明り取りから柔らかく陽の光が差している。一日はまだ始まったばかりだ。

 通された部屋は十数歩で渡り切れるくらいの広さだった。石床で、明るいが空気はひんやりしている。殺風景な内装に不似合いな、凝った細工の椅子が奥にひとつ。ほかには何もない。椅子の正面に私は跪かされ、ラウルとウゴは私の両脇で畏まっている。カカは後ろか。姿が見えない。

 そこに現れたのは、騎士とは違う装いの若い男だった。金銀の刺繍で縁取られたガウンを纏って、大股に椅子に歩み寄り座る。

 ラウルの言っていた「皇帝陛下の御子息の一人」とやらだろう。左右に騎士団幹部らしい男たちが身構える。

「これがアンブロワーズの火竜姫か」

 椅子の男は頬杖をついて私を見た。つるんとした顔は剣など振ったこともなさそうな印象だ。

「答えよ。火竜姫か?」

 男の声が部屋に響く。私は頷いた。

「レアだな?」

 その問いには、すぐに反応できなかった。長いことそう呼ばれていたはずなのに、会食で隣り合わせただけの知人のように、レアという名は私との間に隙間を作っていた。

「レアだ」

 カカの声が頭上を通り越して前方へ移動する。無遠慮に椅子のほうへ進んでいく後ろ姿が視界に入った。「今はマルリルと名乗っている。……それでよろしいか、イリネイ閣下」

「賢者殿。私はこの女に聞いている」

 イリネイと呼ばれた男は立ち上がってカカに向き合った。見上げる格好になって舌打ちする。

 カカは賢者と呼ばれているが、この男より高い身分というわけではなさそうだ。だが、ここまで従っていたラウルたちが平伏しているこの場で、一人自由にしている。

「確認する」

 イリネイはカカを押し退けて私の正面に立った。

「自分で名乗れ。そのくらいの礼儀は半島でも仕込まれているのだろう?」

 忙しなく動く薄い唇から浴びせられた言葉が私に、プルデンスに叩き込まれた定型句を思い出させた。

「火竜姫レア・ラヴァル、アンブロワーズ国央軍魔導師団、大魔導麾下」

 イリネイの目を見て答える。「……だった。今はただのマルリルだ」

 レアとして受けた貴族教育が、マルリルになった私の矜持を支える。罪人扱いに怖気付く必要はない。

 しかしイリネイは私がしおらしさを失ったのが面白くないようだった。こちらを睨み返しながらラウルから鎖を取り上げ、力任せに手繰る。私は腕が伸び切った状態で石床に引き倒された。

「閣下!」

 ラウルの短く発した声が、ほかにイリネイを静止する術がないことを示していた。

 打ち付けた肘と腹が痛むのを堪えて体を捩り、なんとかイリネイに視線を戻す。瞼がりそうなほど上目にしてやっと、嫌悪を露わにした表情を捉えられた。

「では次は、本人かどうかを改めよう」

 イリネイは鎖を放り投げた。石床でけたたましく金属音が弾ける。「裸に剥け」

 その一言に、砦の面々も驚いた様子だ。誰一人として動く者はいなかった。

「〝千里を薙ぐ〟力の持ち主は、鱗が生えているそうじゃないか」

 爪先が一歩、二歩と近づいてくる。

「お前がやれ」

 イリネイの命令は誰に向けたものなのか。私にはもう足元しか見えない。

「……できません」

 ウゴの声。

「チチェクの残党が、歯向かうつもりか?」

 イリネイは嘲った。無理を承知で言っているのだ。そしてやはり、ウゴはチチェク人だった。

「畏れながら閣下、使命は火竜姫をお連れするところまで。我々はもう任務を果たしています」

 ラウルが取りなすが、

「まだ私はこの目で確かめていない。今ここで証拠を見せよ」

 イリネイは一蹴する。「お前がやるか?」

「腕だけで十分でしょう。──失礼」

 ラウルは私の傍に膝を突いて助け起こし、束ねられた私の手首を下から持ち上げて袖を捲った。前腕の外側を覆う鱗が剥き出しになる。

 イリネイは不愉快な虫を摘むように、私の鱗をひっぺがした。不意の出来事に、私は思わず悲鳴を上げた。鱗の剥がれた跡に血が滲む。

「本物のようだな。ふん、不気味な女だ」

 満足そうな笑みを浮かべた瞬間、イリネイの表情が固まる。鱗を摘んだ腕を、カカが掴んでいた。

「もう玩具を欲しがる歳ではないはずだ」

 カカが見つめただけで、鱗は燃え上がった。イリネイは慌てて指を離し、カカを睨む。カカは炎ごと鱗を握り潰した。灰すら残っていなかった。

「無礼な!」

 カカの手を振り解いてイリネイは怒鳴る。「私を誰だと思っている!」

「ボブロフ皇帝第十三皇子、帝国西部指令閣下」

 カカが跪くと、イリネイはまた舌打ちして椅子へ戻った。

「火竜姫はこちらが招いた客人。ここまで自分の意思でお越しいただいた。まずは、ご用件を」

 改まってカカに話を振られ、

「アンブロワーズは追手もかけず、襲われた事実を揉み消したらしいな」

 イリネイは脚を組んで踏ん反り返った。

 私を襲うために国境を侵している。アンブロワーズも帝国の仕業であることはわかっているはずだ。

「普通なら宣戦布告と見做すところだが、お前なしでは勝ち目がないと踏んだのだろう。国民の安心材料でもあった火竜姫が行方不明なのもまずい。半島を統一しても所詮は臆病な田舎王家よ」

 私を拐う目的はアンブロワーズから主戦力を奪うと同時に半島へ攻め込む口実を得るためだったのか。戦いにならなくても火竜姫が手中にあれば優位に交渉できる。

 しかし、アンブロワーズは事件をなかったことにしてこれを躱した。私を失っても、元々辺境へ追いやろうとしていたくらいだから、名前だけが生きていれば足りる。

 計画の立役者は半島と大陸に分かれたチチェク人。実行部隊がカカの一族……。

「アンブロワーズが別人を火竜姫にした以上、この女はもう交渉の切り札にはならない。アンブロワーズとしては、もはや死んでもらったほうが嬉しいかもしれないな」

 残る価値はその力の解明と有効利用。カカが言っていた〝掛け合わせ〟をはじめとした実験だ。

「本部は、きっちり〝躾けて〟から送るようにと言ってきている。力の程度も調べて、噂ほどのことがなければ用済みだとも」

 この後どうなるか、私の運命はイリネイ次第ということか。正面の椅子、美しい刺繍ガウンを纏った皇子の、頬杖の上に乗った顔は不敵に歪んでいた。

 「きっちり躾ける」とは、私が何をされても従順でいるように洗脳するという意味だろう。鱗を毟られる以上の屈辱と苦痛を与えて。

 要するに帝国本部は、当初の目論みが外れて私を持て余しているのだ。躾が行き過ぎて砦を出ることなく死んでも、本部は特別困らない。むしろ都合がいい。

「では、ただのマルリルよ」

 イリネイは目を細めて顎をしゃくった。

「これからは我らがボブロフ帝国のためにその身とその力を捧げると誓え」

 イリネイの顔には私の悲鳴をもっと聞きたいと書いてある。最初から大人しくしていたとしても何もされない保証はない。

「どうした? 誓えないか?」

 挑発に乗せられてはいけない気がして、私は口をつぐんだ。

「提案がある」

 カカが、跪いたまま言った。私への圧迫を邪魔されたイリネイは撫然として顎で指す。発言を許されたカカは立ち上がった。

「実力は俺たち一族が身をもって証明した。一晩で広大な森を焼き尽くす火量だ。……知の巨人族は、俺と母だけになった」

「報告は聞いている」

「半島側の動きが予想外だったせいで、本部も処遇に迷っている。躾をしておけというのは、まだ具体的には考えていなかった掛け合わせの相手を探すための時間稼ぎだ」

 イリネイの片眉が上がる。

「鱗の生えた女と子を成す──喜んで受ける男がすぐ見つかるだろうか」

 話しながらカカが椅子に近づいていく。イリネイは忌々しそうに、しかし止まれとは言わずに座り直した。

「イリネイ閣下、貴殿は望むか?」

「馬鹿な質問を……私には皇帝の血統を守る義務がある」

 見下ろすカカから顔を背ける。

「なら問題ない」

 カカはその位置で再び跪いた。「この女、俺の嫁に貰い受ける」

「なに?」

 イリネイが目を丸くした。ラウルとウゴにも動揺が走ったのを感じたが、一番驚いていたのは私に違いない。カカは後ろ姿だ。どんな顔をして言ったのか。

「随分かばい立てすると思ったら、そういうことか」

 含み笑いのイリネイと目が合う。舐めるように私を観察する目つきは下衆そのものだ。

「情が移ったか? 賢者殿」

「神界源流の血族との子供なら、本部も皇帝陛下も興味があるはず。それに知の巨人族は存亡の危機だ。俺にも嫁探しを急ぐ理由ができた。躾も含めて俺が面倒を見るなら、ここに居座る必要はない」

 そこまで聞いて、私はやっと理解した。カカは砦に留め置かれずに済むように理屈を捏ねている。でも、シンカイゲンリュウとは?

 私の疑問をよそに、カカはイリネイとの睨み合いを続けている。

「却下だ」

 イリネイは傍の騎士に命じてカカを退がらせた。

「嫁にするのは勝手だが、躾は我々が本部から承った役目だ。私の一存では譲れんなあ」

 早く砦を出たがっているのに気づいての嫌がらせだ。しかしカカは怯まなかった。

「勝手にしていいならそうさせていただく。今から指一本でも俺の妻に触れた者は、命はないと思え!」

 立ち上がり、私の手首の戒めを解く。イリネイは気色ばんだが、話はついた。

 私を抱き寄せるカカの腕が石床で冷えた体に温かかった。

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