あの夜の密談

 当時大陸は戦乱の最中にあった。知の巨人族は傷ついた人々のために薬を分けては旅を続けていた。

 ある時、一族の長ヴィニシウスは、ボブロフ軍が通過した直後の焼け落ちた街で炎に包まれた赤ん坊を見つける。とても助かるまいと目を背けたが、呼び止める声がした。

 よく見ると子供は焼かれているのではなく、魔法の火で守られていたのだった。声は、大陸に満ちた穢れにより弱った半身を、瀕死の赤子の体に移したと言った。凍てつく夏至まで、この子と生を分け合うと。

 赤ん坊を抱き上げると炎は消えた。以降、ヴィニシウスは一族とは分かれ、赤ん坊を連れて旅に出た。

「それがお前と火の精霊だった。魔女云々はどこぞの伝説と混じったか、ヴィニシウスが真実を隠すために作ったんだろう。いずれにしてもお前は、元は普通の人間の女だ。健康ならば子供を産める可能性は高い」

 普通の人間。そうであったらと願ったこともあったはずなのに、無力さだけを突きつけられた気がした。

「帝国はそれを知ったうえで、お前に子供を産ませてみたいのさ。色々な男と掛け合わせて、な」

 おぞましい計画も所詮は人の子と高を括るからこそ、か。半島の化け物扱いが可愛らしく思える。だが、腑に落ちない部分もまだある。

「鱗や、あの血の効果は……」

 鱗はともかく、傷を癒す血があると知れたら。考えただけでもぞっとする。

「それは俺も知らないが、紐解く方法はある」

 カカは懐から小袋をつまみ出すと私の目の前に差し出した。

「これは、俺の母親の歯だ」

 意図が読めず固まっている私に、カカは体を起こしてそれを近づけてきた。

「お前のことは放っておきたかった。だが、──」

 袋からひとつ、白い小石ほどの物がカカの手のひらに転がり出る。「半島から奪え、と言われた」

 またひとつ。

「裏切るな」

 また、ひとつ。

「早くしろ」

 手のひらに三つの歯が並び、カカはそれを握りしめた。

「長を失った一族はボブロフの統一戦線に巻き込まれて帝国の犬になった」

 犬。

 川べりに追い詰められた記憶が蘇る。唸り声、煙の匂い、クロードの息遣い。血の味。

「人質としてボブロフに軟禁されている母が、お前のことをもう少し知っているはずだ。ほかにも、ヴィニシウスの名前が鍵となって明らかになる情報があるだろう。俺たちはそういうふうに名前を使う」

 カカは歯を袋に戻し、口づけた。私は思わず目を背けた。段々と出来事がつながってくる。帝国は私を奪うために、母親を使ってこの人を動かした。私は、巻き込まれた兵士たちを焼き尽くした。いや、そんなの初めてじゃない。眩暈を堪える。ウゴの涙を噛み締める。

「攫われたお前の身にこれから起こる不幸は、俺の母以上かもしれない。それでも、脅されてしたことだから許せ、とは言わない」

 結果論だが、と、カカは指を立てた。

「自分の秘密を知ったうえで帝国から逃げきれれば、お前にとっては半島で貴族ごっこをして暮らすよりましなはずだ」

 しまい直した小袋を衣服の上から軽く叩く。「……俺に乗るか?」

 カカの目には私をからかっていた時のぎらつきが戻っていた。

 胸元から熱さが込み上げてくる。指先に向かって流れるはずの魔力が逆流しているような感覚だ。決断を促すつもりか、カカが言葉を継ぐ。

「向こうへ行ったら、隙を見て母を連れ出す。お前はそれを手伝う。話せるようになったら聞きたいことを聞けばいい」

 再び体を屋根に預けて目を閉じる男の上に、立ち尽くす私の影が落ちる。

「あの二人も帝国も裏切るというのか?」

 やっと出た声は上擦っている。カカは返事の代わりに片目を開けて、口角を歪めた。

「帝国を敵に回して逃げ切れるはずがない! 第一、ボブロフのような大国に隙なんてあるものか!」

 剣を握る手に思わず力が入る。

「まあ、そうまくしたてるなよ」

 カカの台詞であの夜がまた像を結んだ。焚き火に照らされる騎士の横顔。いや、足元に横たわるのは別人の大男だ。急速に心が冷えていくのを感じる。

「どのみち私には選べる道がない」

 月を見る振りで目を逸らす。「連れていかれるほうへ、ついていくだけだ」

「それはどうかな」

 煙が流れてくる。カカはいつのまにか煙管を吸っていた。

「選択肢は無限だ。お前が選ぶか、選ばないか。たとえば今ここで俺を殺して逃げることもできる」

「一人で?」

 当然、とでも言いたげにカカは煙を吐く。

「いつでも、いくらでも逃げられた。単にお前が選ばなかっただけだ」

「逃げても、追われる」

「だが、アンブロワーズは何もなかったことにした」

「それは」

 言いかけて、私は口をつぐんだ。用無しになったから辺境へと追いやられるところだったのだ。旅立つ前にこっそりと姿を消してしまえばよかった。

「選べ」

 耳元で声がする。カカの顔が近い。また距離を詰められたのに気づかなかった。

 反射的に体を退こうとしたが両肩を掴まれる。支えるような手つきなのに、後ろへの自由はない。腰を屈めたカカは正面から私の目を覗き込んでいる。

「今なら選べる。明日ここを発ったら、二人きりになるのは難しい」

「なぜ……私なんだ」

 カカの胸を押し戻す。衣服越しに硬い粒の感触があった。咄嗟に腕を引いて指先をさする。さっきしまった母親の歯だ。

「精霊の半身に選ばれたことなら、母に会えばわかることもあるだろう」

「利害は一致してると言いたいのか?」

「思ったより難しい言葉を知ってるんだな」

 カカは私の頭を軽く叩いた。「貴族教育の賜物ってやつか」

「馬鹿にするな!」

 頭上に振り上げた手は空を切った。カカは一瞬だけ口元を緩めたが、

「母親の救出をなぜ他人のお前に頼むのか、なら、成り行き以外に理由はない」

 屈めていた体を伸ばして、私を見下ろした。視線は私を通り越した先の何かを捉えているようだった。

「犬たちも、同胞も灰になった」

 掠れた声が降ってきて、私は固まった。カカは今どんな顔をしているのだろう。「お前が殺したんだ」頭の中で誰かになじられる。燃え盛る対岸を振り返りもしなかった。炎の向こうで起きていることに目を背けていた。

「長年解放を求めてきた俺たちにボブロフが提示した条件が、火竜姫拉致だった」

 カカは、最初は断った。しばらくすると歯が送られてきた。それでも反対したが、計画は実行された。止めるカカを置いて、仲間たちは犬を引き連れて出ていった。

「持ちかけられた取引を拒否する権利もない。成功したってどうせ始末されて終わりだ。俺たちは、本当は帝国と戦う覚悟を決めるべきだった」

 だが、仲間たちは炎に飲まれて消えた。だから私に代わりを務めろと、カカは言いたいらしい。殺したいほど私を憎んでいてもおかしくはないのに。

「急に襲われたんだ」

 私の声は震えた。「矢が、雨のように降ってきて、犬が」

 仕方なかった。護衛は散り、離れずにいてくれたのはクロードだけだ。川へ追い込まれて、何も考える余裕はなかった。

「敵も味方もわからなくなって、そのうちクロードが斬られて」

 次々と込み上げてくるのに、途切れながらでしか吐き出せない。子供の言い訳みたいで情けなくなり、クロードの剣にしがみつく。

「正当防衛だと言いたいのか」

「私を生け捕るなら、私だけ誘い出すとか、金網で捕らえるとか、いくらでも方法はあったはずだ! 武器に毒まで塗って──」

「毒?」

 カカの声が裏返った。

「毒だ! 全部お前が、お前たちが仕組んだ! 何が何でも殺す気で待ち伏せていたんだろ!」

 いつから流れていたのかわからない涙を拭って、私はカカを睨み返した。

「なんだと!?」

 痛いくらいの握力で両肩を引き寄せられる。殴られる! 反射的に目を瞑った。

 一呼吸おいて、恐る恐る目を開ける。カカは真顔だった。

「毒って何のことだ?」

 つま先が屋根から離れた。目前のカカは私にかぶりつきそうな勢いで迫っている。腕に食い込む指が骨にまで届きそうだ。

「痛い……」

 絞り出した一言に、カカははっとした様子で私を下ろした。しかし束縛を解くつもりはないらしく、両手で私を挟んだまま聞いてくる。

「武器に毒が塗られていただと? それは本当なのか?」

「そうだ」

 急に狼狽えられてこちらまで不安になったが、涙は引っ込んだ。澄んだ視界で大男を見上げる。

「毒も作れるんだろう? 薬を作れるなら」

「毒は、使わないことはないが……基本的に俺たちの技術は狩りのためのものだ。狩りでは毒は使わない」

 ぐっと、再び強く掴まれる。

「どんな毒だった?」

 月明かりでカカの目が光る。私は唾を飲んだ。あったことをそのまま話すべきか迷ったが、カカの真剣な眼差しに圧されて、毒を受けたあとのクロードの様子だけ伝えた。

 傷自体はさほど深くはなかった。川を渡ってからしばらくして血を吐いて死んだ。

 ──私に心配させまいとして明るく振る舞うその裏で、どれほどの苦しみに耐えていたのか。思い出して胸が詰まる。

「それは鉱物毒だな」

 カカの声は落ち着きを取り戻していた。「動植物の毒なら、水で流れる」

 腰を下ろすカカに私も倣った。長いこと掴まれていた部分に夜風を感じる。

 鉱物毒は石から採る。まず鉱脈を持っている必要があるし、掘り出すには組織立った人手とそれなりの道具が要るとカカは言った。

「〝蛮族〟の俺たちには扱えないシロモノだ。密かに売られている物もあるが、高い」

「帝国から指示があったのでは?」

 口を挟む私に、

「俺たちは誇り高い〝知の巨人〟だ。武器に毒を塗るような野蛮な真似はしない」

 カカは口元に手を当てて考え込む素振りを見せた。「いや、人攫いに加担する時点で誇りは地に落ちているか。……だとしても、おかしい」

「何が?」

「帝国からの指示なら俺の耳に入らないわけがない。その前に、生け捕りに毒は無用だ。標的を殺しかねないからな。矢を無闇に射掛けるのも、本来の目的からずれている」

 作戦では地形を利用して後方護衛を分断し、戦力を削ってから奇襲をかける段取りだった。カカはその通り作戦が実行されたものと思っていたようだが、私の記憶とは食い違っている。

「火竜姫を隠れ蓑に、別の目的を果たそうとした奴がいる。俺たちは利用されたんだ」

 握った拳を振り下ろす先に迷って、吐き出す息とともに脱力する。沈黙から怒りとも哀しみともつかない感情が伝わってきた。

 死ぬはずだったのは、私なのか? アンブロワーズはなぜ何もなかったことにした?

 深入りしてはいけないと直感が告げているのに、私の頭は断片的な情報をつなぎ合わせようとしている。知ったことかと撥ねつければいい。そう思うのに、口を開けた謎に魅入られて、真実に手を伸ばそうとしている。

「それで、どうする」

 カカが私を見ていた。

「どのみち俺は母を助ける、その時にお前がどう動くかは、自由だ。──考えておいてくれ」

 カカ自身もまだ新しく出てきた可能性を消化しきれていないのだろう、後は言葉少なに私を部屋へ戻して去った。ウゴとラウルには言うなよと念を押して。

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