《十年前》「私」はマルリル

大陸の洗礼

 激しい雨が視界を奪う。前を行くウゴとラウルが泥を跳ね上げる。カカに、ほとんど引きずられるような格好で、私は走っている。

 開けた荒地は一粒も雫を遮らず、私たちを悪天に晒す。が、それでも進まなければならない。雨音を潜って低い唸り声が届く。まだ、「奴ら」を撒ききれていない。

 かつては小川でもあったのか、転がる岩と岩が示す細い筋を辿っている。この雨でまた川に戻ろうというのか、溜まった泥水がわずかに流れを作り始めている。体感はなくても傾斜を登っていることは確かだ。

 ドニを出て五日、私はウゴとラウル、カカと共に山を越えてボブロフ領に入った。街道を避けて道なき道を行く。私の存在があるせいか、それとも彼ら自身の問題なのかはわからないが、半島を出たからといって堂々と歩ける身分ではなさそうだ。

 荒野を通れば危険との遭遇率も上がる。私たちが今逃げているのは悪天候ではなく魔物からだ。

 カカの歩幅に合わせるには、私は二、三度脚をばたつかせないといけない。山越えの防寒がそのまま役に立つ気候の土地、着ている外套はそもそも重い。雨除けのための革製のはずが、何の役にも立っていない。衣服は水を吸い、肌に張り付いている。

 濡れた布は滑りが悪い。自分で思うほど脚が上がらず、勢い余ってつんのめる。顔面から着地する直前で腕を引っ張られ、体勢を立て直すが、膝が笑っている。

 もう走れない。無言でカカを睨む目に雨が入る。

「泣き言か? 火竜姫」

 そう言うカカの顔はよく見えない。

「あんなの、焼き尽くしてやる」

 手を振り解いて、背後に向き直る。煙る水飛沫に無数の赤い光がちらついた。ウリズリネ。魔法で荒れた土地に湧く、口に入る大きさなら同類でも餌にする中級の魔物だ。

「やめておけ」

カカは私を担ぎ上げると再び走り出した。

 わかっている。この降りではたとえ魔法でも、炎の威力は弱くなる。しかも、こんなに体を濡らしてしまっては。その前に、魔法を使うなとカカに言われていた。退治屋の仕事は退治屋がする。通りすがりは、ただ通り過ぎればいいのだと。

 カカの肩で二つ折りになった状態で、私は顔だけ上げて敵を確認した。赤い光は三つに減ったが、さっきよりも大きくなっている。向こうは、ただの通りすがりとは思ってなさそうだ。走って逃げるのは限界がある。明らかにこちらは疲労で速度を落としている。

 ウゴとラウルは、さっき私が転んだ間に少し離れたか。足音は雨に消されてわからない。

 赤い光は、それをはめ込んだ頭の陰がわかるほどまで迫ってきている。人間の倍はありそうな、獣の形をした三つ目の、口が裂けて──気づいた瞬間、鞭のようなものが飛んできて、カカの脚に巻き付いた。

 引き倒されるカカから放り出された私は、背中から地面に叩きつけられた。緩んだ土の上だが衝撃で息が止まる。痛みにのたうち回る暇はない。近くの岩につかまりながら体を起こす。カカは、うつ伏せに倒れていた。巻き付いているのは舌だ。そして、舌の持ち主は一飛びで爪が届く位置にいる。

「賢者様!」

 声がしたほうを見る。滝のような雨の向こう、進路の少し先で小屋ほどの岩にあがったウゴが弓をつがえていた。

「火を!」

 怒鳴るウゴに、カカは寝たまま上半身を捻って火球を掲げた。放たれた矢は火球を貫いて、燃えながらウリズリネの赤い目に突き刺さった。


「鉄矢に樹脂を塗って飛ばすとは考えたな」

 揺らめく炎に手をかざしてカカは言った。

 ウゴの一撃で敵が怯んだ隙に、私たちは〝川〟沿いにさらに進んだ。岩が重なり合ってできた窪みに体を詰めて、なんとか雨を凌いでいる。降りは弱まってきているが、四人全員びしょ濡れ、着替えの入った布袋は絞れるほど水を吸っていて、立ちあがろうにも空間的余裕がない。私の右にウゴ、ラウル、左にカカ。囲む焚き火でなんとか暖を取っている。

「魔法使いとの連携の基本……です」

 ウゴは雫の垂れる前髪を掻き上げた。カカやラウルに比べて若いと感じるのは、目に宿る輝きだろうか。火を見つめたまま、あまり会話を膨らませるつもりはなさそうだった。

 魔物は火を嫌う。何か燃やしていれば、立ち上る煙のにおいだけで大半は逃げていく。対峙した場合は魔法で撃退するのが早いが、肝心の魔法が使えなければ、分が悪い肉弾戦でなんとかするしかない。

 ウゴは鉄でできた矢に可燃性の樹脂を塗って放った。ただの矢なら、ウリズリネは手負いの獣と化してさらに私たちを追ってきただろう。カカの火球を潜って火をもらった樹脂は、豪雨の下でも少しの時間燃え続ける。矢が急所に突き立つ痛みと忌まわしい炎で、〝食事〟どころではなくなったらしい。

「そんな手があったなら、なぜ最初に使わなかった?」

 恨めしい気持ちで私は聞いた。着たままではうまく水気を切れない袖が、鱗に張り付いて不快だ。

「鉄製は三本しかなかったんです。旅の装備には重いし高すぎる」

 ラウルが背後の岩の隙間に生えている草を毟って火にくべた。薄い葉はすぐに燃え尽きた。焚き木になりそうなものはほかにない。魔法なら濡れていても生木でも燃えるが、火は火だ。燃えるものがなくなれば、いずれ消える。

「奴らの領域に踏み込んだほうが悪い」

 カカが指先から魔力を継ぎ足した。

 魔法が壊した環境に魔物が湧くのは、再生への第一段階だと言われる。自然がありのまま回復するために人を寄せつけないようにしているというのが通説だ。魔法で魔物を排除した土地はさらに荒れ、回復しないまま人の手が入る。そして再び魔物が現れる。

「お前はもう少し理屈を学べ」

 濡れた煙管に自分の指で火を点し、吐き出す煙とともにカカは言った。さすがに摺付木は使い物にならないようだ。

「雨足がだいぶ弱くなりました。そろそろ出ましょう。今なら日暮れ前にはこの荒地を抜けられる」

 ラウルの提案にカカとウゴは頷いた。

「まだ降っているけど?」

 私は驚いてラウルを見た。

「ええ。でもここにいても体は乾きませんし、民家のあるところまであと少しのはずですから」

 言うと、ラウルは早くも荷物を背負いだす。「このまま夜を迎えるほうが危険では」

 ラウルの言葉で、一つ残った赤い光を思い出した。あの個体はまだ生きている。最初は何匹もいた。火が絶えたら、またいつ襲われるかわからない。

「では」

 ラウルに促され、あとの二人が立ち上がる。私も、まだ疲れの取れない脚で雨の中へ踏み出した。

 もう歩けない。まだ休んでいたいよ……。

 頭の中で、子供の自分が駄々をこねる。じじ様を困らせて、それでも昼間のうちに距離を稼がなければならなくて、じじ様に背負われて旅を続けた。

 そういえば、あの夜、じじ様の話をしたんだった。カカと、二人で──。

 ドニ二泊目のあの夜、宿の屋根上で。寝転んだカカは手振りで私に横に来るよう示した。かすかに吹く風に近づけと促されて、私は足元を確かめながら両手で這うように距離を詰めた。

「これからお前、どうなると思う」

 カカの問いが現実を思い出させる。

 国にいた頃のように貴族扱いされる保証はない。何か利用価値があるからこその拉致で、簡単に殺されることはないのだろうが……。

「戦争の道具」

 黙っている私にカカが煙と共に吐き出した言葉は、言われるまでもなくわかっている。

「──で、済めばいいが、な」

 厚みのある手で煙管を叩く。赤く光る火種が灰となって散った。

 ほかに〝使い道〟があるとしたら、私の存在の意味を知る者が、本来の役目を果たさせようとしているくらいだろうと、この時の私は考えていた。可能性の低い賭けだとしても、国に戻って余生を送るよりは自分について明らかにできると信じていた。

「初潮は来たか?」

 唐突な踏み込んだ質問に、私は思わずカカのほうを見た。火の消えた煙管を弄びながら、飛んでいった灰の行方を追うように顔を空に向けている。

「なんでそんなことをお前に」

 教えなきゃならないんだ、と言い終わる前に、含まれた意図に気づいた。

 半島統一、ボブロフへの牽制、辺境の領主となること──土地の有力者と婚姻を結んで。つまりそれは、力を継ぐ者を産ませる計画だったのだろう。一瞬で街を焼け野原にする火力は王都付近での戦いには向かない。鱗の生えたおぞましい女は体面がすべての貴族社会では輿入れも叶わない。

 中央から遠く、脅威を有効に活用でき、本来なら貴族の家柄ですらない、人と違う体の姫でも嫌と言えない立場──それが赴く予定だったラビュタンの領地だった。

 生まれた子が母譲りの力を持っていれば、国境は安泰だ。半分は由緒ある家柄の血も入る。私の「火竜姫」は一代限りの栄誉称号だが、子供はラビュタンの侯爵位を継いで中央に貢献できる。……プルデンスが考えそうなことだ。

「人の子が産めるかどうかもわからないのに……」

 思わず漏れた呟きに、

「ヴィニシウスは何も言ってなかったか?」

 カカが口にしたのは、じじ様の名前だった。

「なぜお前がその名を知っている?」

 心がざわつく。じじ様はずっと名前を伏せていたし、どうしても必要な時は偽名を使っていた。私にヴィニシウスを名乗ったのも最期の瞬間だった。

「ヴィニシウスは俺と同族だ」

「同じ?」

「〝知の巨人〟──半島ではあまり聞かないだろうな。薬や狩りの知識で、ボブロフではそれなりに重宝されている」

 片腕で頭を支える格好で、カカはこちらに体を向けた。その風体にじじ様と似た印象はないが、じじ様も、路銀が底をつくと薬を作って売っていたことを思い出した。

「瀕死の魔女、火の精霊、蘇り」

 私の出生秘話。嘘だとばかり思っていた。「半分は本当らしい」

 俺もその頃は子供だったから、とカカは続けた。

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