リオネルの受難

 リオネルは執務室で寝椅子に体を預けていた。午後の日差しは半島最北のこの地にも遅い夏の訪れを告げている。初めは心地よいが次第に暑くなるこの場所は、寝過ごす余裕のない今、ほどほどの休憩を取るのに丁度良い。

 火竜領現領主は火竜公レアであるが、その配偶者リオネル──ラビュタン家は、半島統一以前は小さくとも一国の主、統一以降は侯爵としてこの地を治めてきた。

 レアの火竜公は一代限りの栄誉のため、婚姻は没後にラビュタン家が名実ともに領地を取り戻すために必要な政治だった。王子として生まれた身にとって結婚は道具に過ぎない。守るべきものに最良の結果をもたらすならば、それが結ばれるべき相手なのだ。たとえ鱗が生えた小娘であっても。


 腹部の膨らみが目立つようになり、レアは階段の昇り降りも辛そうになった。それでも仕事を手伝うと言う妻をサリーナに任せ、リオネル自身は子供が生まれてから十分に時間が取れるよう、片っ端から仕事を片付けている。

 一区切りしたところで横になり、そのまま眠ってしまったリオネルの額に汗が浮かぶ。いつもならここで起き上がって仕事を再開するが、疲れが溜まっているのか、今日は瞼を閉じたまま、身じろぎもしない。


 火竜姫レアは、着いたばかりの頃は常に緊張しているようで、連れてきた侍女サリーナにしか心を開いていなかった。統一戦線で活躍した魔法使いといっても、まだ少女だ。新しい土地で不安がるのも無理はないと、ラビュタン側は茶会や食事にも顔を出さない新領主を放っていた。実権を手放したくない旧王家にとっては、表に出てこないなら、そのほうが都合はいいからだ。

 しかしリオネルは違った。いかに政治とはいえ、自分が妻に迎える予定の人物である。領主としての仕事や振る舞いを身につけさせ、軍内での配置も決めておかねば、火種を引き取った意味を領民に示せない。

 一方で、大人の事情に翻弄される少女が不憫でもあった。北部で山岳地帯も多い、豊かとは言い難い土地で、大陸の脅威と隣り合わせながら一生を過ごすのである。リオネルを夫として気に入らなければ恩賞どころかただの地獄だ。

 リオネルは日々の食事も必ずレアに声をかけ、打ち解ける糸口を探していた。

 人前に出たくないのならと、花や本を贈ると、サリーナが丁寧な感謝の言葉を綴った手紙を持ってきた。そこから他愛のない挨拶を手紙でやりとりするようになった。

 やっと散歩に連れ出せたのは、半年経ってからだった。レアは汗ばむ陽気でも首から下は肌を見せないようにしていたが、太陽の下で咲く花に見とれ、風に乱れた髪を恥ずかしそうに押さえる仕草は、ほかの同じ年頃の少女と変わらず可憐であった。

 ある日のことだ。庭の石造りの腰掛けに二人で座って、結婚について話したことがあった。リオネルが先に腰を下ろして隣を勧めると、レアは背を向けるようにして座った。

 近いが、顔を見ずに言葉を交わせたのが良かったのかもしれない。部屋から出なかったのは歴史ある旧王家に遠慮してのことで、これから先も自身が出しゃばるつもりはないと、レアはおずおずと語った。すべてわかって諦めている素振りに寂しさを覚えたのをリオネルは思い出す。自分でも政治だと割り切っていた結婚だったが、この人を幸せにしたいと強く思った瞬間だった。

「ここは、君にとってはこの石のように冷たく居心地の悪いものだろう。でも君が望めば敷布を掛けることもできるし、木製の椅子を持って来させることもできる」

 自分の口から出た台詞は忘れたいが、忘れられない。

「ただ君が冷たい石に座り続けると決めているなら、僕も一緒に座って温めよう……」

 そこで急にレアが笑い出した。

「独特な詩才をお持ちですのね」

 レアを振り返るとまだ肩が笑っている。

「王都から来た君には、田舎くさかったかな?」

 リオネルはレアの肩を抱いて振り向かせた。笑顔を見られると思って。だが、彼女は泣いていた。驚いて手を離す。真っ直ぐに見つめてくる瞳は美しかった。

「ごめんなさい、嬉しくて」

 微笑むレアを、リオネルは抱きしめた。


 暑さと喉の渇きでリオネルはやっと寝椅子から起き上がった。微睡みの中で初々しいレアを懐かしんでいた。今は名実ともに夫婦となり子供の誕生を心待ちにしている。

「私が何者であっても、愛してくださいますか」

 初めてリオネルに肌を晒す時、レアはそう言った。

 しかしレアの体には、どこにも鱗らしきものは見当たらなかった。

「力を妬む者が悔し紛れに流した嘘です」

 リオネルはただの噂を真に受けた自分を恥じた。鱗がなくてほっとしたことには気づかないふりをして。

 時折思い出しては自問する。もし鱗があったとしても、レアへの愛は変わらない。年老いても、病に伏しても。

 その愛する妻のために、今日もあと半日、仕事に精を出す。リオネルは机に向かうとグラスに残っていた水を飲み干して帳簿を開いた。

 ──中央からの指示で年々軍備に回す額が上がっている。税収には変化がないので、橋や街路の補強が蔑ろだ。かと言って税を上げられるほど領民は豊かではない。

 同じ国境でも大陸からの通商路で潤うモンテガントとは大差がある。何か新しく産業でも興せれば、というところだが、いつ戦場になってもおかしくない国境には、そもそもが腰を落ち着けようとする若者が少ないのも悩みの種だ。

 目頭を押さえてため息を吐く。今日はどうにも考えが散らかって集中できない。こんな時に限って部屋の外も騒がしく、漏れ聞こえてくる音が気になってしまう。

「どうした、ネズミでも出たかい?」

 扉から顔を出して廊下を行き来しているメイドに声をかけたのは、捗らない仕事に見切りをつけた頃だった。午後のお茶を久しぶりにレアと過ごそう。気分が変われば日暮れまでの時間で今日分の目処はつけられる。

 呼び止められたメイドはしばらく口籠もっていたが、迷った様子を見せた後に執事頭を呼んできた。

 執事頭はリオネルを執務室に押し戻すと、きっちりと扉を閉めてから小声で話し出した。

「お気を確かにお聞きいただきたいのですが──」

「まさか、レアや赤ん坊に何か?」

 リオネルは気が気でない。赤ん坊を産むのは命懸けだ。赤ん坊もまた、生まれ落ちる瞬間までどうなるかわからない。

 詰め寄るリオネルに、執事頭は椅子と水を勧めた。

「いえ、それすらも不明で。お姿が見えないのです」

 水の入ったグラスがリオネルの手から落ちる。

「レアが……いない?」

 執事頭は頷いた。

「まだ少数の使用人で敷地の中を探しているところですが、見つかっていません。どうも、朝のお茶の後にサリーナ様と散歩に出かけられてから、お戻りになっていないようなのです」

「散歩中に何かあったのか……?」

「このところは散歩といってもお庭を回られる程度でした。護衛なしで外に出られたのであれば、事件の可能性も」

「誰にも告げずに? 誰か、誰かいるだろう……行き先を聞いている者か、共に行動している者が!」

 取り乱すリオネルに、執事頭は首を振った。

「わたくしどももそう考え、まずは事を荒立てないように少人数で足取りを追っていましたが、昼食時になっても手がかりがないままで。人数を増やして探し始めましたが一向に……。城内で見つからないならばもう悠長にしておれません。早々に捜索隊を編成して城下を探さなければ」

 執事頭は語尾をリオネルに委ねるように言葉を切った。リオネルはグラスを落とした姿勢のまま固まっている。

 返答を待って絨毯に転げたグラスを拾ったその時、扉が叩かれた。ノックと呼べる穏やかさではない。急を告げる兵士の叩き方だった。

 執事頭は扉とリオネルを交互に見た。リオネルは呆然と空を見つめている。来訪者に気づいていない主に代わって扉を開けると、衛兵が飛び込んできた。

「リオネル様!」

 衛兵の剣幕に、リオネルは正気を取り戻した。

「今度は何だ!」

 弾かれたように椅子から立ち上がり、衛兵を振り返る。衛兵は肩で息をしながら、立ったまま答えた。

「スティナ山脈を背に不審な陣営あり! 数およそ二千、スティナ砦より距離およそ四日!」

「なんだと!?」

 衝撃がリオネルを襲った。思わず後退るリオネルの足元に、先程こぼした水が黒いシミを広げていた。

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