カカという男

 目だ。この目がいけない。カカのまなざしが私を貫く。

 月明かり、屋根の上、カカと私、二人きり。酒場の灯も落ちて、街は寝静まっている。吐く息の温度、胸の鼓動さえ伝わりそうな距離。手にした刃は大男の影で光を失う。


 ドニ二泊目は、ウゴが朝食後すぐに探してきた宿に移るところから始まった。新しい部屋は、入り口は一つ、居室を抜けて寝室という造りだ。この街に長く居座る季節商隊向けの宿らしかった。

 ウゴは居室に一つ寝台を運ばせて陣取った。一応私が好き勝手に外に出られないようにしたのだろう。二階だが、逃げようと思えば窓から出ることはできる。そのつもりはないのに出口を探してしまうのは癖だ。

 とりあえずウゴは私と同室でなくなりほっとした様子だった。

 私も、部屋があるなら一人のほうがいい。再び旅が始まる前に、今夜はゆっくり休みたい。できれば何も考えずに。

 宿が決まったあとは、また街に出てウゴについて歩いた。必要なものはあらかた昨日の買い物で揃っている。今日は腰につける革袋や携帯食などの小物を買い足した。

 ウゴは武器屋で自分の剣を研ぎに出して、小型の弓矢を調達した。剣は日暮れまでに研ぎ終わり、弓矢は山中での狩用だという。聞いてもいないのに喋るのは、昨晩のことがあっていくらか打ち解けたのか、それとも、別の意図を隠すためか。

 どちらでもいい、どうでもいい。店の外で会計を待つ間に、「火竜姫が所領に着いた」と通行人が話すのが聞こえたが、私は驚かなかった。クロードは無事生還したらしい。住む世界の違う人が住むべき世界に戻ったなら、それで十分だ。

 私はすでにマルリルだ。ほんの少し、連れ戻されることを期待していた自分がいたが、気づかないふりをする。あとは、なるようにしかならない。

 窓幕を開けると青い光が差し込む。昨日より少し痩せた月が窓越しに見える。

 研ぎ終わった剣を受け取ったあと、宿の近くで早めの夕食を取って、私はウゴと部屋に戻っていた。

 ウゴはドアの向こうの居室にいる。明日は出立だから早く寝ろと私には言っていたが、自分はまだ起きて月を見ているだろう。明るい月には力があるとチチェクでは信じられている。月光を浴びながら祈りを捧げているはずだ。

 私は祈らない。チチェクで強制された習慣からは、火竜姫になった時に解放された。月には冷たさを感じて好きになれない。窓幕を閉めて寝ようとした、その時だった。

 驚きや恐怖から悲鳴をあげる時、人は誰かの助けをあてにしていると思う。自分しかいない場所で予測していなかった事態に見舞われたら、案外声など出ないものだ。

 月光が遮られ視界が暗転した瞬間、短く息を吸い込んだだけだった私は、隣室の男にまだ警戒心が働いているのを自覚した。

 形や動きから、人なのはすぐにわかった。その時点で私は、現れた人物に思い至っていた。火を灯して向けると、窓枠にはカカが貼り付いていた。庇から両腕でぶら下がり、足の指を縁にひっかけているようだ。

 カカは私が気づいていることを認めると庇の上に引っ込んで、かわりに腕を垂らした。私は静かに窓を開け、その手をつかむ。

 私を片腕で抱えて、カカは屋根に上がった。

 二階建ての高さでは街並みを一望とはいかないが、青く照らされた疎らな往来が足元に見え、異質な空間に踏み入った気分になった。月光とともに静寂が忍び降り、酔っ払いを寝床へ追いやっていく。

 カカは軽々と斜面を登り、突き出た煙突の裏に回り込んだ。私は煙突に背中を押しつけられる格好になった。顔が、近い。

「無防備がすぎる」

 耳元でカカが囁く。はっとして、咄嗟に胸を押し返したが、腕をつかまれたまま、体は離れない。しまった、という思いより、ウゴよりもよほど怪しいこの男に油断した自分と、それを見透かされていることが恥ずかしかった。

「安心しろ。今日は〝おやすみのキス〟はナシだ」

 言われて、顔が熱くなる。押し返す手から力が抜けると、カカも私の腕を放した。やっとできた隙間に夜風が抜けていく。手のひらに硬い筋肉の感触を覚える。顔を上げると、カカの視線にぶつかった。

「あの二人に聞かれたくない話があるんだろう?」

 私はカカに促した。目は逸らさない。カカは頷いた。

「朝まで、お前を寝させないくらいには、な」

 黒く光る瞳が迫ってくる。朝まで寝させない、その表現の別の意味合いがなぜか閃いてしまい、思わず顔を背けた。

「期待してることが別にあるなら、それに応えるのも悪くないかもな」

 頭上からカカの声が降ってくる。髪をぐしゃぐしゃに撫でてくる手を振り払って、私は目の前の男を睨みあげた。奴は私の反応を見て楽しんでいるに違いない。悔しい!

 カカは一瞬笑った──ように見えただけかもしれないが、不意に体を捩って腰から何かを外した。

「なら、さっさと用件を片付けなければな。まずはこれだ」

 差し出されたのは、私が抜き身のまま持ってきてしまった、クロードの短剣だった。

 革の鞘に収められたそれを受け取る。柄には傷口を手当てするように粗布が巻かれていた。この下には王家の紋章が打ち込まれているのを、私は知っている。半島統一の際、武勲に応じた褒賞とは別に王より下賜された、騎士団員の証だ。

「刃は手入れした。鞘は中古の既製品だ。少々遊びが大きいが、留め具が付いてるから簡単には抜けないだろう」

 いい剣だ、とカカは言った。

 留め具を外して抜いてみる。肘から先くらいの刀身に白い光が滑っていく。剣の良し悪しは私にはわからない。柄を握る手に力を入れて刃を立てようとしてみたが、重くてふらつく。本当は私には扱えない代物だ。持っていても仕方がない。

「試してみるか?」

 胸元の合わせをくつろげて、カカが肌を見せる。月明かりが筋肉の盛り上がりに影をつける。カカは私の手首ごと柄を握って、切っ先を自らに向けた。手の大きさが違いすぎる。すっぽり包まれて圧迫され、自分の手を引き抜くことができない。

「もう少し使えるようにしておくべきだな」

 剣を下げて鞘を被せる。「お前を守る騎士は、もういない」

改めて剣を渡される。私は両手でそれを抱きかかえた。硬い皮膚の感触が手に残っている。騎士はもういない。火竜姫は私じゃない。そんなことは、わかっている。

 私をからかうのはこれで気が済んだのだろう。カカは屋根の傾斜に寝転んで煙管に火をつけた。

「楽にしろよ。ここからの話は、少し長い」

 男の吐いた煙を、風が散らしていった。

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