蘇る記憶

 ドニに着いて、馬を売って、その金で冬の支度を買う。厚手の外套や襟巻、手袋。山は寒いからと、ラウルに繰り返し念を押されていた。今の時期に一軒の店でまとめて買うと、山越えを疑われる。一品ずつ、同じ店に行くなら時間を空けて。まだるっこしい買い物に時間を取られ、あっという間に日が暮れる。

 その間、ウゴはほとんど私には話しかけてこなかった。私は黙ってウゴのあとについて歩く。買う時も、選べ、というように顎をしゃくるだけで、私が手にしたものをろくに見もせずに支払いに持っていく。店の主人との値段交渉は人並みにしているので、口下手とか引っ込み思案とかいうわけではなさそうだ。

 ドニは多分、私は初めてではない、と思う。あてどない旅で何度か立ち寄ったことがある気がするが、自信はなかった。大きな街道沿いにある大きな街はどこも似ているから、区別がついていないだけかもしれない。

 こういう街では商売人が一番偉く、それ以外の人種は様々だ。見るからにならず者もいれば、傍目にはわからない〝訳あり〟もいる。

 誰もがどこかへ向かう途中で、あるいは折り返し帰る先がある人で、一律に予定をこなす忙しさに追われている。面倒ごとは御免だから、つまり他人に無関心だから、短い期間滞在するには都合がいいのだ。

 西の空は赤く染まり、道行く人が宿に吸い込まれていく。両手一杯になった荷物を私に預けて、ウゴは宿探しに行った。

 一人で待たせても私が逃げないとわかっているのだろう。見くびられているのではなく、私が自分について知りたい気持ちを見透かされているのだ。

 詳しいことは話せないとしているのも、目的の場所まで私についてこさせるための手だ。

 きっと、将軍や大魔導とは違う──おそらく彼ら以上に、私の使い道を知っている。私の存在の根本に関わる部分も、もしかしたら。そのくらいでなければ、火竜姫の強奪に何人もの命を懸けた理由が見当たらない。


 しばらくしてウゴが戻り、私たちは無言で今日の宿へ向かった。訳ありの旅にそぐわない、大きく構えた建物だった。二階の一室に通される。中は部屋の中央で間仕切りされていた。

「一人部屋を二つ取れる宿がなかった。我慢してくれ」

 ウゴが自分から喋ったので、心の準備がなかった私は驚き、そのあと吹き出してしまった。

 二部屋取れる宿を探し回っていたのか。時間的にもう空いている宿がなくて、二人部屋で間が仕切れる所をやっと押さえた、と。

 初めてまともに口をきいたと思ったら、襲撃犯の一味らしからぬ内容で、私は脱力した。

「奴隷だったから、雑魚寝は慣れてる」

 こみあげる笑いを堪えていると、

「それは子供の頃だろう」

 と言い捨てて、ウゴは衝立の左に消えた。

 必然的に私は衝立の右側の寝台を使うことになった。正面の窓はすでに幕が降ろされ、枕元に蝋燭が灯っている。

 靴を脱いで寝台に手足を投げ出すと、身体中の強張りに気づく。ウゴの気遣いに吹き出して気が緩み、湧き上がっても無視していた恐怖や不安が押し寄せる。鼓動が早くなり、呼吸が浅くなる。涙があふれてくる。

 またひとりになってしまった。この先どうなる。私は何か。生きる意味は。

 薄い板一枚隔てた向こう、ウゴに気取られないようにしなければ。大丈夫だ、殺されることはない。でも、信用はできない。

 跳ね上がるように脈打つ胸を押さえて、固く目を閉じる。まぶたに浮かぶ騎士の笑顔は、もう縋ることすら叶わない幻。

 吹き消すように、息を吐き出す。その分で深く吸い込む。呼吸に集中すると、鼓動も落ち着いてくる。

 暗い森の中で一瞬夢見た平凡な暮らし。失ったのではない、奪われたのではない。あれは、これから手に入れるものだ。何からどうすればいいか、わからないけれど。煙と血の匂いの立ち込める私の旅路に、唯一見つけた光だ。見せてくれた人は、もういないけれど。

 耐えろ。何があっても他人に力を見せてはならない──。

 じじ様の言葉が蘇る。

 そう、力は見せてはいけないはずだった。どんなに不便でも、じじ様が殺されても。鱗を見世物にされても、盗賊の手下として掻っ払いやスリを働くことになっても、機嫌を損ねて殴られても。

 なぜ私は力を使ってしまったのだ。頑なに守っていたのに。きっかけがあったはずだが思い出せない。


 いつのまにか眠ってしまっていた。燃えつきた蝋燭に代わって、窓から月明かりが差し込んでいる。

 衝立は窓の手前を人が通れるくらい空けて置かれている。寝台からは体を起こしただけで青く照らされたウゴの姿が見えた。両膝をつき、額の前で指を組んでいる。真ん丸い月に窓格子が架かっていた。

「起きたのか」

 ウゴは窓に向いたまま声をかけてきた。私は寝台から降りて窓際にウゴと並ぶ。

「月に祈るのは、チチェクの民」

 思いつきを口にしてみる。だからどう、というつもりはなかった。

 ウゴは跪いた姿勢のまま、指を解いた。影になっていた瞳に月が映る。震える光がふた粒の星になって落ちる。

 窓幕の隙間から忍び込む月光のように、あるいは、欠けた窓格子から吹き込む風のように、密やかに、だが、明らかな対比が私の心に生まれた。

 誰かの平凡な暮らしを、私は壊してきた。たくさんの人の人生を狂わせ、大切なものを灰にした。「利用されること」を利用して、可哀想な自分に酔いしれて、 支払われる代償に気づかないふりをしていた。

 ──力を見せてはならない。

 もう守れない、じじ様の言葉。時間は戻らない。考えろ。私の存在の意味を、これからしなければならないことを。〝……の時まで〟に。

 あふれてきた涙をごまかすために、私は窓に向かって両膝をついた。月を見上げれば、瀬戸際で水面が踏みとどまる。私はこの人の前で泣いてはいけない。組んだ指で顔を隠して、下唇を噛み締める。


 チチェクでは王族も盗賊さえも、月に祈りを捧げる。物心ついた時から旅人の私には信心する神はいなかったが、チチェクでは、他の攫われてきた子供たちと一緒に盗賊に小突かれながら、空に浮かぶ光に手を合わせた。

 誰かが、白く円いあんな皿一杯に美味しいものが食べられますようにと願って、別の日に別の誰かが、鎌形に尖るそれで盗賊の首を掻き切ってやると誓った。

 子供は新しく入ってきてもすぐいなくなる。奴隷として売り飛ばされる者が大半で、たまにスリや暴力が得意で盗賊側に格上げされる者がいた。

 鱗が不気味な私はいつまでも売れ残り、各地の祭に連れ回された。最後に行ったのは──もう街の名前も思い出せない──どこかの夏至祭だ。見世物小屋が建つくらいだから、それなりに大きな街だったのだろう。

 夏至祭。

 そう、そこで大きく燃える火を見た。夏至の焚き火だ。まだ魔法を隠していた私は、移送用の木枠の檻の中からそれを見て……。

 月を見ていたはずの私の視界が赤く染まる。瞬いて涙を振り払うと白い月がそこにある。

 鱗が逆立つ感覚。薄布が燃え縮むように、記憶を塞いでいた幕がめくれ上がる。

 ──おいで。

 躍る舌先に誘われて、私は檻を焼き切った。慌てて取り押さえる男たちに向けて、羽毛を吹き上げるように手のひらに息をかける。生まれたての炎が、示された方向に無邪気に進む。近づく者は熱と戯れ、私を追うのを忘れる。

 じじ様と二人きり、ほかに誰もいない荒野ででしか出せなかった力を解放して、私は有頂天になった。両手から立ち上る炎の翼に頭をつければ、鳥になって天高く舞い上がり、焚き火と私を行き来する。帯状にして回転をかければ、地面を転がって私を焚き火へ誘導する。

 ──おいで。

 導かれるままに、夏至の火に辿り着き手をかざす。目に映る明るさと肌を炙る温かさが、私の力となって体に漲る。

 ──かわいい姫よ、助けてくれるね?

 私は頷く。姫なんかではないけれど。

 ──きっと、来てくれるね?

 もう一度頷くかわりに、私は魔力を火にくべる。すでに薪を燃やし尽くした炎が、自らの勢いで起こした風に煽られて唸る。

 ──きっとだよ。

〝凍てつく夏至の時〟に。

 回想から我に返ると、隣にウゴはいなかった。夕飯を取っておいてくれたものだろうか、布が掛かった皿が窓縁に置かれていた。

 あの後私は後ろから何かで殴られて意識を失った。その衝撃が原因だろう。魔法を使ったのは覚えていたが、夏至の火と交わした約束は今まで思い出すことはなかった。

 以降、私は鎖に繋がれて、盗賊の塒から出されることはなくなった。間もなく戦争が始まって、一刻も早く、少しでも高く私を売りさばきたい盗賊の前に上客が現れた。十歳の時だった。


 翌朝目覚めるとウゴはすでに支度を終えて部屋の支払いまで済ませていた。記憶と夢の境目のはっきりしない時間を過ごしたせいか、起きてからもしばらく私はぼんやりしていた。

 宿の一階には外からも入れる食堂が付いていて、宿泊客以外にも旅人が出入りし、食事時は混雑している。私たちが朝食に降りた時にはすでに満席で、壁沿いに並んで待つことになった。

 食堂の壁一面には古い帆布に描かれたボブロフ大陸の地図が掛かっている。旅人の往来が多い街ではよく見るものだ。この宿は建物が大きく食堂も広い。布地は荒く全体的に煤けていたが、精緻で立派な代物だった。

 オクタヴィアン半島と大陸を縫い合わせるように走るスティナ山脈。私たちはこれを越えて、大陸の名を冠したボブロフ帝国に入る。

 ボブロフが大陸に乱立していた国を武力行使で配下に収めたのは、十数年前の話だ。いくつもの小国と多種の民族を統べた王は皇帝を名乗り、次は半島をと狙っている。

 半島は昨年、セルジャンを拠点とするアンブロワーズ王家により平定。国名をオクタヴィアンとし、半島に安寧と繁栄をもたらした。……セルジャンで貴族の教養として教えられた大陸の歴史だ。

 地図はまだボブロフ統一前のものだった。半島も含め大陸全体が細かく区分され、今はただの地名に成り下がった国々の名が、ところどころ掠れて表示されている。チチェクもまだ一国として、半島の右端、スティナ山脈が途切れた位置にあった。

 ウゴは地図を避ける形で壁に寄りかかっている。祖国を奪われた側には、あまり見たいものではないのかもしれない。盟約により友好的に降った国は平定後も自治を認められているが、チチェクのように事を構えた国は新しい領主が据えられ、旧国の統治は消滅している。

 チチェクは特に、魔法戦の犠牲になったため土地の損耗が激しい。暮らしていた人々は散り散りに逃げ、魔物が湧いていると聞く。誰も欲しがらない焼け野原は、所領が隣接するモンテガント公に与えられた。

 私の祖国はどこなのだろうか。じじ様に聞いても、「ここよりもずっと遠く」としか答えてくれなかった。両親のことも、何から逃げているのかも、私についての情報は教えてもらっていない。「瀕死の魔女が」云々は、私の炎を見た盗賊がどこかで聞きかじってきた話で胡散臭い。

 ラヴァル将軍は取引した悪党を生かしておくほど甘くはなかった。盗賊は殲滅され出所はとっくに闇の中だ。プルデンスなら独自に何か掴んでいそうだが、おいそれと自分の身の上を聞ける雰囲気の人ではなかった。


 やっと空席ができ、私たちは無言で食卓についた。宿泊客には乳粥が出される。ウゴは、ほかに食べたいものがあれば頼んでいいと言ったが、私は首を振った。朝は、温かくて流し込めるものだけあればいい。

 じじ様は、もう少し私が大人になってから話すつもりだったのだろう、と思う。不運にも、別れは早くに来てしまったけれど、そうでなくともいずれ私は一人で生きていくことになる。自分の存在について知らないままで逃げ続けるのは限界があるから、一人前の理解力、思考力、判断力が身につくのを待っていたはずだ。ただ、今となってはその内容を調べる術がない。

「マルリル」

 呼ばれて対面に目を向けると、空になった皿を前にしたウゴがこちらを睨んでいた。私の手元、持ち上げた匙から粥が皿に落ちる。考え事に夢中になって手が止まっていたようだ。

「後がつかえてる。早く食え」

 ウゴが親指で指すほう、壁沿いに、まだ朝食にありつけない人たちが並んでいた。私は慌ててぬるくなった粥を掻き込んだ。

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